信州上田 松尾町商店街

松尾町から上田を発信する 松尾町から上田を発信する

地学で見る上田の歴史

文 ○飯島新一郎
監修 ○山辺邦彦(郷土地質研究家)

シナノイルカ(泉田博物館蔵)

はるか昔は海の底だったという過去に、海から遠く離れて山に囲まれた現在の上田のイメージを重ねることは難しいと思います。しかし第25号(2018年3月発刊)で紹介したシナノイルカの化石は、かつて上田が豊かな海だったことを雄弁に語ってくれています。

一体なぜ、どのようにして、上田は海の底になり、そして今のように山間の盆地になったのか?それを解き明かすには、2000万年前から現在に至るまでの地殻の変動を知らなければなりません。そのキーとなるのが、過去からのタイムカプセルである地層です。地層に記憶された太古の記憶を紐解きながら、上田に一体何が起こったのか追っていきましょう。

1300 ~1100万年前の青木層の礫岩(鴻之巣)
太郎山の流紋岩でできた上田城の石垣
1700 ~ 1500 万年前の地層である内村層の凝灰岩(伊勢山)
1500~1400万年前の別所層の黒色泥岩(伊勢山)
1100~520万年前の小川層と亜炭(小牧)

海底から陸地に

時代を遡ること2000万年前。マグマの移動によりアジア大陸の東縁が裂け、日本列島が大陸から切り離されるという大きな変動がありました。その動きの中で起きた大陥没をフォッサマグナと言います。現在の上田にあたる場所は1700万年前、この巨大な落ち込みによってできた海の底に誕生しました。その後、日本列島が現在のように圧縮される時代となり、上田も含めたフォッサマグナの地層は隆起をはじめ、やがて陸地に変わっていったのです。
上田が海だった頃の地層を、古い順に「内村層」「別所層」「青木層」「小川層」という4つに分類することができ、それぞれ異なる特徴を観察することができます。
さらに時代が下って100万年前になると、日本列島の海岸線がかなり今の形に近くなってきて、上田は現在のような海無しの土地になりました。今から2万年前頃の氷河期には海水面が100mも下がり、対馬海峡・津軽海峡がせまい水路になりました。現在の日本列島の形とほぼ同じになるのは、さらに時代が下って1万年前のことです。

マグマの上昇で山ができる

上田の南北にそびえる独鈷山系と太郎山系の山々ができたのは、中新世後期(約1100万年前~500万年前)のこと。地下から貫入してきたマグマが冷えて固まって山となったものです。この時の冷えて固まったマグマが流紋岩として両山に見られ、太郎山の流紋岩は940万年前に貫入したことが分かっています。ちなみに上田城の石垣もこの流紋岩でできています。
また川西方面にある岩鼻は、580 万年前に貫入して来たひん岩が地下で冷えて固まったものです。その後、長い時間をかけて千曲川が浸食してひん岩を掘り出し、現在のような断崖絶壁の岩肌となりました。

ひん岩でできた岩鼻の断崖絶壁
古期上小湖成層(上田市横山)

湖の底に沈むこともある

唐猫に追い詰められたネズミが岩鼻の堤を食いちぎって、巨大な湖だった上田から水を抜いたという鼠と唐猫伝説は、広く上田地域とその周辺で知られています。ですが過去にさかのぼると、実際に上田盆地は満々と水を湛えた湖だった時期があったのです。上田の湖が最初にできたのは今から約130万年前のことで、その規模は上田盆地をすっぽりと覆うほどのものでした。この時代の地層を古期上小湖成層と言い、伊勢山・大久保・横山・手塚など、盆地周辺部に広く分布しています。
その後も繰り返し湖ができました。約6万年前~4万年前の湖の地層が新期上小湖成層、約3~2万年前のものが上田原湖成層として見られます。これら3つの湖はいずれも、岩鼻から千曲市にかけての千曲川沿いの谷がせき止められてできたと考えられます。この一帯は古くからの地すべり地帯で、今でも地すべりを起こした痕跡を地形で確認することができます。

上田原湖

2.8 ~2.4 万年前頃

上田原湖成層は、県営球場東の台地(上田原)の崖などに見られる。
新期上小湖

6.1 ~3.9 万年前頃

新期上小湖成層は、樋ノ沢・朝日ヶ丘・神畑・室賀などに分布している。
古期上小湖

130 万年前頃

古期上小湖成層は、伊勢山・大久保・横山・手塚などに分布している。

松尾町の河岸段丘は火山災害の痕跡

松尾町のある河岸段丘は、さらに時代を下った約1万年前に起こった上田泥流による堆積物でできています。上田泥流は、はるか東の浅間山と三方ヶ峰の間にある深沢爆裂火口から流れ出た巨大泥流で、この段丘崖では浅間山山系の軽石や溶岩をたくさん観察できます。このころは縄文時代草創期にあたりますので、きっと我々の祖先はこの大災害を目の当たりにしていたことでしょう。
さらに上田泥流の直下には、約2万年前に発生した雲場火砕流による堆積層があります。これは現在の軽井沢雲場池の横にある離山(はなれやま)付近から噴出した火砕流で、千曲川の流路に沿って軽井沢から上田まで到達したものです。離山は浅間山の側火山の溶岩ドームですので、条件によっては浅間山の噴火による火砕流が上田まで来るかもしれない危険性を物語っています。

深沢爆裂火口の谷と、泥流発生の爪痕が生々しく残る赤ゾレ
離山(長野県軽井沢町)

終わりに

ここまで、2000万年前のフォッサマグナから始まる上田の歴史を、地学という切り口で追って来ました。人類が地球上に出現する前、あるいは出現していても何の記録も残すことができなかった時代の出来事や様子が、地層を調べると分かってくるところに地学の面白さがあります。地層が語る歴史、それは今の上田の景色からは全く想像もつかない、まさに天と地がひっくり返るような激動の歴史でした。
数千万年の単位で考えると、大地はまるで生物のように激しく動き続けています。つまり過去に起こったことは、これからの未来でも起こることなのです。地層は、自然の力を甘く見る人類へと警鐘を鳴らすために、未来からやって来たメッセンジャーとも言えるのです。

学問も活文も負けないもん

文 ○ドラいもん

少子高齢化、地方消滅、物から事、持続可能な社会、AIで10年後に「消える職業」「なくなる仕事」。変わるべきものと変わらざるべきもの、これからの社会で残る価値ってなんでしょうか?企業や商店、行政、団体、家族、個人、仲間。遠くない未来には様々なものが変わるでしょう。バッドエンドかもしれない世の中を憂えて今回は、変化する時代に向かって人々の意識に変革の種を蒔いたであろう人物に目を向けてみたいと思います。

活文禅師(1775~1845)の自作の木像(龍洞院所蔵)
活文が終の住処とした常田の毘沙門堂の跡
活文禅師が上田で最初に住職についた蒼久保の龍洞院
多聞庵を開いて象山をはじめとして数多くの弟子に薫陶を与えた岩門大日堂

活文禅師が開いた寺子屋

真田坂から少し脇に入った旧北国街道沿いに毘沙門堂(常田(ときだ))という御堂があります。江戸時代に活文禅師(かつもんぜんじ)という方がここで「多聞庵(たもんあん)」という私塾を開いていました。手元の資料によると、活文禅師は松代藩生まれ、9歳で曹洞宗信定寺(しんじょうじ)(長和町)に出家して活文と言う名を賜り、その後、御嶽堂(みたけどう)宗竜寺(そうりゅうじ)(丸子)、長楽寺(群馬県下仁田)、定津院(じょうしんいん)(東御市)、と禅宗の学問修行に励みながら、24歳で長崎へ留学に向い、その帰りに3年間さらに江戸で修行。交流と見識を広め、35歳の時に出家先であった信定寺の住職として戻り、その後、45歳で龍洞院(りゅうどういん)(蒼久保(あおくぼ))の住職についた人物です。
しかし、周りと折り合いが悪く6年で隠居し、岩門(いわかど)大日堂(古里(こさと))で寺子屋多聞庵を開きました。資料によれば寺子屋では、漢文、蘭学、詩歌、書、彫刻、琴(一弦琴)などを教えていたとあります。
その後毘沙門堂に移り71歳で亡くなるまで1000人以上を弟子にしたとされています。

佐久間象山(1811~1864)(真田宝物館所蔵)
活文禅師が漢文の素読で用いた教科書(龍洞院所蔵)

活文禅師のもとに通う門下生「佐久間象山」「高井鴻山」

こんな活文禅師の下に、歳の佐久間象山(ぞうざん)も弟子として通うようになります。
松代から地蔵峠を越え入軽井沢、曲尾、金剛寺を経て片道30㎞を超える道のりを通い、漢文、一弦琴の教えを活文禅師が漢文の素読で用いた教科書(龍洞院所蔵)受けました。20歳の時、象山は漢文100篇を作って学業勉励であるとし、松代藩主の真田幸貫(ゆきつら)からも銀3枚を下賜されたとあるので、ここでの学問は佐久間象山を佐久間象山ならしめる一助となったものと思われます。

また、象山とは時期が後になりますが、同じ松代のひと、高井鴻山(こうざん)も教えを乞いに活文禅師のもとを訪れています。高井鴻山は江戸で儒学、浮世絵を学び葛飾北斎を小布施に招き支援した、当代きっての文化人です。その鴻山が活文禅師を訪ね、禅を学んでいたそうです。

沢山の門弟が通っていたことで、門下生達のコミュニティーもそこに形成されていき、佐久間象山もここでの仲間達との交流が後々まで続いたようです。寺子屋は四年後には手狭になり、より交通の良い所への移動が必要になったためと想像しますが、城下町から少し外れた常田の毘沙門堂に移り、71歳で亡くなるまで自身のそれまでの得てきた知識や経験を後世に託したと伝わっています。

高井鴻山(1806~1883)(高井鴻山記念館所蔵)
龍洞院に伝わる佐久間象山の書

門下生「赤松小三郎」

常田の毘沙門堂には、多くの人々が活文禅師に弟子入りして盛況だった様子が思い描かれます。諸説ありますが、若き日の赤松小三郎もここに通ったとされています。後の赤松小三郎は、英国式兵学者ということもあり先進的な考えを誰よりも先に持っていました。日本で初めて議会開設や人民平等を唱えた人物でもあります。日露戦争で連合艦隊司令長官として指揮を執り「トウゴウ・ターン」で有名な東郷平八郎も赤松の教え子です。東郷は、日露戦争に勝利した翌年の明治39年、善光寺における日露戦争戦没者慰霊祭出席の帰途、上田に立ち寄り月窓寺にある赤松の墓参を行っています。大正13年、赤松に従五位が追贈されると東郷平八郎は赤松顕彰碑の碑文を揮毫し、その石碑は現在でも上田城跡公園に建てられています。

赤松小三郎(1831~1867)(上田市立博物館所蔵)

変化する時代に必要なのは、人の繋がりとカルチャー

さて、文章の冒頭で活文禅師を変革の種を蒔いたであろう人物と紹介しました。佐久間象山、高井鴻山や赤松小三郎、その他の名前こそないが志高くそれぞれの地域社会を支え、変わる時代に備えた人たち、そういった人々が作り出していった新しい社会への空気。人々のコミュニティー。活文禅師のもとで学び、コミュニティーを作っていった人々たちは、何を求めたのでしょうか?活文禅師は何を教えたのでしょうか?残念ながら講義録のようなものは残されていません。従来のトップカルチャーである儒学や漢学の教授だったのでしょうか。否。黒船来航以来、世の中は大きな変革の時期を迎えていました。日本全体がそれまでのトップカルチャーでは対応できない状況、価値基準の喪失に右往左往していました。そんな中で若者たちは既存の枠を超えた見識、情報を求め、互いに議論しそれぞれの理想を高めていった。活文禅師はまさにその欲求に応えてくれる人だったのではないでしょうか。長崎で海を越えた広い世界に触れ、蘭学を学んで優れた西洋の文明を知る。そこからは自ずと新しい日本の形を求める気概が生まれていたはずです。そこにあるカルチャーから派生したコミュニティーからはサブカルチャー的な、斬新でエネルギッシュな匂いがしてくるのです。そこから新しい国造りに大きな影響を与えた佐久間象山や赤松小三郎のような偉人たちが巣立っていったわけですね。だから種を蒔いた人になると思うわけです。

未来の「かち」

話は変わりますが、先日とある方の話が印象的でした。「上田は負けたことがないから、勝つがないし、活が無い。」…簡単にいうと、負けないようにすることには頑張るが、勝ちに行くような冒険をしない。言うなれば、官僚的、保守的。だから活気が生まれにくいということだと思います。

真田丸のあとは…と言われて、特に方向性が出せない上田。良い所がいっぱいあるのに、的を絞れない上田。そもそも絞る必要あるの?って言うと収拾がつかなくなりますが(苦笑)。いずれにしろ、とにかく結果を出してやるんだという気概みたいなものが足りない。きつい言い方すれば、「ごっこ」になってしまっていると思うんですよね。

こんな今の上田を見て活文禅師なら「喝!」と叱ると思いますし、いつかは絶対「勝つもん」というサブカルチャー的なハングリー精神が必要だと思います。本当の「かち」とは何かを真剣に考える必要があると思うんですよね。商店街もそうですけど、時代が変わる時は自身も変わる位の気構えがないと駄目だと思います。

僕はペンネームがドラいもんなので、少しドライな意見を書くスタンスです。ドライな気候の上田にはピッタリかなとか思っていますし。でも、上田はそろそろ点を取りにいかないと駄目だと思います。点取りいってドライからトライ。なんてダジャレ?いやいや、活文禅師が教えていた漢文でも、現代のサブカル的な音楽でも共に「韻」が大切。

未来の「かち」のヒントは、カルチャーとコミュニティーなのかもしれないなと思わされた心のインサイドにインパクトのある、韻を踏みつつ、掛け言葉で遊びつつコミュニティーの大切さに触れることができつつで今日も楽しく記事を書かせて頂きました。ありがとうございました。

○取材協力 村上博優様(龍洞院)
○参考文献 上田市誌(上田市誌刊行会)
○監修  増田芳希

編集後記
今回は活文禅師特集とウエジオ第2 弾の二本立てです。
共にかつて上田にあった活力を思い起こさせる内容だったなと感じます。
取材、発行等ご協力頂いた皆様ありがとうございました。(寺島)

発行日:2019年4月25日
●ご意見、ご感想をお寄せ下さい。FAX 0268-21-1100
●真田坂web:http://sanadazaka.jp
●発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
●理事長:志摩充彦
●「真田坂」担当理事:飯島新一郎
●スタッフ:佐藤隆平/平林敏夫/増田芳希/飯島新一郎/町田和幸/寺島遼