信州上田 松尾町商店街

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信濃国分寺・八日堂~千三百年のときの流れと共に~

信濃国分寺は天平13年(西暦741年)の聖武天皇の詔勅により、全国六十六ヶ所と壱岐、対馬に建立された僧寺のひとつです。正式には金光明四天王護国之寺であり、『金光明最勝王経』を納めました(金光明最勝王経とは、鎮護国家と人々の生活の平穏無事を祈るお経です)。息災安穏、万民豊楽を祈念した、はるか昔の国造りへの想いと息吹が伝わってきます。ここ上田に信濃の国分寺が建立されたことは、この地域が国造りを進める上で重要であり、寺院を経済的に支えることの出来る豊かな地域であったことを示しています。

信濃国分寺は、八日堂とも呼ばれその長い歴史とともに私達の暮らしと関わって来ました。仏教寺院として祈りを捧げる宗教儀式の場のみではなく、経典の講読はもとより、その時代々々の叡智の教育の場であり、人々の集まる交流・公益の場、でもありました。壮大な建造物で囲まれた空間で繰り広げられた儀式は目を見張るエンターテイメントであったでしょうし、法楽と称して伎楽を舞い管弦の演奏も行われ、コンサート・イベントの会場にもなったようです。

毎月八日に『金光明最勝王経』を読経する事、八日に市がたった事などから、いつしか『八日堂』と呼ばれるようになりました。また、江戸時代のいつの頃からか昭和の中期まで本堂の西側に『八日堂座』という芝居小屋があり、娯楽・芸能の場としても賑わったそうです。

信濃国分寺本堂(県宝)
八日堂座焼き印
信濃国分寺三重塔(重文)
飾り瓦

江戸中期に描かれたと推定される『八日堂縁日図』では、正月八日の初日と白く積もった雪、蘇民将来符をもとめる人々、ひしゃく・箕・ざる・糸より車・笠・羽物・宝槌・手桶・鍬・まな板・ぞうり・小間物などの日常雑貨や、蚕種、干鰤(ほしぶり)・山鳥・うさぎなどを商う露天が立ち並び、よしずで囲まれた中では宴とも思われる人影が踊り、当時の賑わいを生き生きと伝えています。

いまでは知る人も少なくなっていますが、『からす田楽』も『八日堂縁日』には欠かせない風物だったようです。もともと冬場に烏の肉で田楽を作り商っていた鳥屋が市内にあり、正月『八日堂縁日』では飛ぶように売れました。お参りに向かう人混みでごった返す道沿いで売られる『からす田楽』。首からぶら下げられた烏たちがアセチレンガスの炎に照らし出される。押しつぶされそうになりながら歩く道々ほおばった田楽の味は、忘れられない縁日の記憶と共に蘇るそうです。

信濃国分寺・八日堂は人々と共に長い歴史を重ね、今も息災安穏、万民豊楽を祈り続けています。

参考文献=信濃国分寺内八日堂復興会発行『八日堂物語』
文責:増田芳希

信濃国分寺跡

信濃国分寺と蘇民将来符

正月七日・八日に信濃国分寺にて行われる八日堂縁日。ここで頒布される蘇民将来符(そみんしょうらいふ)は、私たち上田人の誰にとってもあまりになじみ深い存在です。

ここでは、古来より上田に根付いていた蘇民将来符について改めて掘り下げ、解説していきます。

そもそも蘇民将来符とは何なのか?

蘇民将来符は全国に存在していますが、その由来とされている伝説はほぼ共通しています。

昔々、牛頭天王武塔神がお后探しの旅に出ました。そのお后候補ははるか南海に居るとのこと、途中で日が暮れましたので一夜の宿を借りようとしました。そこで戸を叩いたのは、巨旦将来(こたんしょうらい)という大富豪の家でした。ですが巨旦は狭量な男でしたので、天王に宿を貸さずににべも無く追い返してしまいます。

途方に暮れた天王が、次に戸を叩いたのは蘇民将来という貧しい男の家でした。蘇民将来は自らの暮らしが貧しいことに恐縮しながらも、精一杯のもてなしで天王に宿を貸しました。

あくる朝の旅立ちの時、天王は蘇民にこう言いました。「巨旦という富豪に宿を断られたのは悔しいことである。帰り道にはきっと一族もろとも仕返しをしてやろう」

それを聞いて蘇民は驚きました。巨旦の嫁は自分の娘だったからです。そこで、自分の娘だけは許してほしいとお願いしました。

天王は快諾し、「それでは娘に、蘇民将来子孫人也と書いた柳の木札を下げさせよ。その者はきっと災厄を免れるだろう」と言いました。


果たして十二年後、天王は后と王子とともに帰路につきます。
そして、木札を下げた蘇民の娘一人を助け、巨旦の一族をことごとく滅ぼしました。逆に、蘇民は金銀財宝を天からさずかり、その一族は末永く栄えたそうです。

(信濃国分寺牛頭天王之祭文から要訳)

という伝説でして、蘇民将来の子孫であることを示して牛頭天王の加護を得ると共に、災厄を家から遠ざける護符が、蘇民将来符なのです。ちなみに、蘇民将来と巨旦将来は兄弟だという説もあり、そうなると名字が「将来」になります。日本式の姓名の順ではなく、名姓の順での表記は欧州風であるところから、この伝説はもともと大陸由来のものであるとも想像が膨らみます。

八日堂座版木:役者名・演目などを刷ったものです。坂東玉三郎の名前も読み取れます。江戸時代後期に使われていたものです。
 本堂境内蔵の鏝絵
金光明最勝王経の経本
なぜ国分寺で蘇民将来符なのか?

信濃国分寺の本尊は薬師如来です。厄病から人々を救う薬師信仰と、災厄からの免罪符である蘇民将来符信仰が結びついたものだと思われます。

蘇民祭で有名な岩手の黒石寺に代表されるように、薬師信仰と蘇民将来信仰がセットになった例は全国に数多く見られます。

蘇民将来符はどこに飾れば良いのか?

現在では家によってまちまちでして、神棚などの高い位置に飾る、玄関にかける、懐中に携帯する、などがあります。
ですが、蘇民将来符の由来が、蘇民将来の子孫であることを示して家や自分の身を災厄から守る、というものであることから考えて、玄関に飾って災厄が外界から家の中に入るのを防ぐ、もしくは外出時に身につけて災厄から身を守る、といった使い方が元々のものだったのではないでしょうか。

信濃国分寺蘇民将来符
蘇民将来符の形は何を意味するのか?

諸説がありはっきりとしたことは言えませんが、比較的一般的なものとして、お后探しに赴く牛頭天王の蓑笠姿をあらわしている、という説が有名です。また、国分寺の伝承によると、蘇民信仰と関係の深いスサノウ神が、高天原を追放された時の姿だとも言われています。

似た形の蘇民将来符は全国に散見できますが、恐らくは信濃国分寺の蘇民将来符がそれらのオリジナルだと考えられます。

蘇民将来符の模様は何を意味するのか?

上から、頭部に描かれた赤と黒の六角錐は魔よけの星型を示す文様であり、網目模様は魔を睨んで祓う目を表しています。

首の部分の模様は、正月の松飾りを表します。中央部の帯と呼ばれる模様は、注連縄と茅の輪を表すと考えられます。
下部の魚鱗のような模様は、山伏が呪文を唱えながら切る九字の作法を表すとされます。

信濃国分寺庫裏玄関に吊り下げて飾られた蘇民将来符
国分寺八日堂縁日図(表紙参照)の拡大図。
本堂縁側で蘇民将来符が頒布されている様子が描かれています。
八日堂はなぜ八日なのか?

天平13年(741年)、聖武天皇による国分寺建立の詔勅には、「国分寺は毎月八日に金光明最勝王経を転読すること」とあります。(金光明最勝王経とは、鎮護国家と人々の生活の平穏無事を祈るお経です)

当時の国分寺におけるもっとも重要な行事とされており、1300年近く経った今でも信濃国分寺では行われ続けています。

特に正月八日はおめでたい節目、ということで古来より、人々が国分寺に行ってご利益に与ろうとしていたのかもしれません。また、毎月八日は薬師如来の縁日でもありますので、いつの頃からか、蘇民将来符がこの縁日と結びついて行ったと思われます。

最後に

今も昔も、自分の健康や家内安全を望む祈りは、人々にとって共通したものです。元々は鎮護国家という国策によって建てられた信濃国分寺が、今なお人々の信仰を集めているのは、蘇民将来符に代表されるように、庶民の普遍的な祈りの対象と結びつき、機能し続けたからでしょう。

信濃国分寺八日堂縁日のにぎわいは、江戸時代の絵図から見て取れるように今も昔も大変なものでした。人々は先を争うようにして蘇民将来符を買い求め、連なる屋台の風景は今と何ら変わらないようにさえ思えます。

過去、そして現在。もちろん全く同じものではありませんが、現在が過去から連綿と繋がった延長線上であることを感じていただけると幸いです。

参考文献=上田市立信濃国分寺資料館『蘇民将来符-その信仰と伝承』
取材協力=信濃国分寺、信濃国分寺資料館
文責:飯島新一郎

裏手の蓮池から本堂を望む。

地域資源を活かそう

「お百姓さんが、八十八の手間をかけて作ったお米。一粒残さず食べな。」

幼い頃よく聞かされたものですが、大量生産大量消費、飽食と言われる時代を経て、忘れかけてしまった大切な日本人の心が、この言葉には込められています。

近年、環境意識の高まりの中で「エコ ecology 」と言う言葉をよく耳にします。自然環境との調和や微妙なバランスの上に成り立っている生態系と共存する人間社会のあり方を示した言葉。例えば、資源に乏しい日本のエネルギーの多くは、比較的低い調達コストゆえ、遠く中東で産出される石油等に頼っていると言われておりますが、輸送や送電の際に失われるエネルギーは、地球環境に大きな負荷を与えており、「エコ」の観点からすると問題をはらんでいます。「エコ」が推奨される社会では、限られた資源を無駄なく効率的に活用する、極力環境に負荷を与えない社会構造の構築が求められます。

そのような観点で私たちの上田を思い返すと、多くの地域資源に恵まれており、来るべきエコロジー社会においては、大きな可能性を秘めていることに気付きます。日本一の日照、豊かな森林資源、先人が長い年月をかけて築いた貯め池や用水路なども含めた水資源や豊かな農地……。これらがもたらす美味しい果物や野菜などの農産物。

昨年12月、松尾町商店街歩道上にカラマツの間伐材で作ったベンチと掲示板がお目見えしました。地域森林の間伐材活用に取り組むNPO法人『フォレスト工房もくり』と共同で設置。街が憩いの場となることを目指し、今後数年かけて商店街全体に増やしていく予定です。そして、歴史の中で長い年月をかけて築かれた街もまた、広い意味での誇るべき地域資源です。商店街に散見される空き店舗を有効に活用し、エコ社会のニーズに応えうる町の再生に取り組んでまいりたいと考えております。どうぞ、ご期待ください。

上田市松尾町商店街振興組合
理事長 寺島秀則

水辺のスケッチ~川辺を歩く~

絵・文 アトリエ俊 ● 飯塚俊雄

矢出沢川風景
矢出沢川に沿って走る旧街道

上田市は、別所温泉や塩田平・美ヶ原高原・菅平高原といった多くの観光財産に囲まれた都市です。この魅力ある上田の、特に市街地には歴史ある建物や文化的で魅力ある場所がいくつもあります。今更ながら、上田に観光に来られる方々に、もっと上田市街地の魅力をアピールしてもいいのではないでしょうか。善光寺・門前町の長野市や松本城・城下町の松本市に負けない街並財産を上田は有しています。もっと独自の魅力を知り自覚する事が大切ではないでしょうか。街を散策でき、周遊できる街並を整備し、市街地の目玉を作っていくことが急務の時期に来ていると私は思います。

私は十八年程前から多くの街並を見てスケッチをしてきました。私に映る美しい・楽しい街並の多くはその街の自然的特性や地場産業を上手に活かしているのに気がつきます。そんな経験を活かし、考えてみますと結構上田市内には観光資源があります。たとえば絵になる川があります。傾斜地もあります。北国街道を中心に古い家屋や神社も残っています。川でいうなら、上田城北側に並行に流れる矢出沢川と蛭沢川。この二つの川は戦国時代に真田氏が整備した経緯があり、以来、矢出沢川は上田城の守りの要として、蛭沢川は町の人々の生活用水として、近世まで上田の町づくりに非常に重要な役割を果たしていました。

憩い空間の提案

並木のある憩いの空間
川を渡る木製の吊り橋
アヤメ、錦鯉などで安らぎの場を演出

上田市街地散策ルートの提案

遊歩道、矢出沢川、小川
蛭沢川風景
矢出沢川風景
蛭沢川
矢出沢川

今なお、矢出沢川には大きなケヤキ樹木や竹林等が豊富にあり、橋が十箇所もあり、歴史を感じることができます。中には「浮世橋」と洒落た名前の橋もあり、どの橋からも見える川の風景に心安らぎます。まずこの矢出沢川をより整備し市民に愛される散策ルートが造れると上田公園を含む四㎞程の周遊散策ルートができ、観光コースとしても魅力溢れる「街並財産」を作り出せるのではと思います。また、蛭沢川も市街地の中心を流れており現在はメーン通りの裏側的存在ですが、よく見ると、過去にこの川が人々の暮らしと共にあったことを偲ぶことができるだけの風情が残されています。川沿いには土蔵も多く、無くなる商店やそれに代わるパーキングも含め整備すると、ここでも小さな周遊型の街並が創れます。上田市街地の街並づくりは、最初に川に目を向けてみたらどうでしょう。

矢出沢川北側に遊歩道が八年程前に設置されました。個人的な意見ですが、この遊歩道が魅力的かと言われると難しいと思います。ただ、遊歩道を作りましたよ。と言う感じでしょうか。私は、現在、上田市が造る施設をみていると果たして市民の満足する施設が出来ているのだろうかと疑問を持つことが多いのです。もう少し、景観に配慮し、「街並財産」を残していく、作っていくということを考慮しても良いのでは?と思ってしまいます。上田は魅力的な都市です。だからこそ、もっと上田の魅力をアピールできたら良いなと思います。その為には、もう一工夫、特に行政が中心になり、市民と一緒に自分たちで街づくりをしていく、街づくりの方向性を決めていけることができれば良いなと思います。

一人でも多くの市民の皆さんに納得してもらえる施設造りを増やしていく努力が「街並財産」を有する都市としての街づくりにも繋がります。矢出沢川遊歩道も、四季にわたって楽しめる草花の工夫・高齢者から子供まで安心して楽しめる施設の見直し・近接地に観光施設や休憩所・小美術館等の検討を含め整備することで、点在している景観財産を散策できる繋ぎの役目に代え、上田城を含めた周遊型の散策観光ルートにしていけばどうでしょうか。また、柳町・原町・海野町を流れる蛭沢川も土蔵風景や広葉樹四季の風景・冬にはマガモも見えるのどかさ等々……。

これから先、街並みも様代りして行くでしょう。商店を閉鎖してパーキングスペースに変わる所やシャッターが閉まった店などが増え、街並が断絶していきます。裏的存在であった矢出沢川や蛭沢川、小路や川淵を見直し、部分的周遊型を試み魅力ある街並づくりを考えてはどうでしょうか。このような発想や工夫が大型店舗とは違った小さな商店の集まる商店街の魅力にも繋がっていくと思います。

記憶に残る川のある街を挙げてみますと「京都」の高瀬川や白川の桜並木や小路、「近江八幡市」の川淵にかわら美術舘のある風景、川淵を散策できる「栃木市」や「大垣市」、その他「金沢市の宮川」、「山形県金山町の堰」などを思い出します。川を活かした街並は又違った魅力を造り、心地よさを市民や観光客に与えてくれます。もう一度上田の良さを一緒に考えて行きましょう。

蛭沢川淵を利用して部分周遊型の街並を造る(案)

散策道

発行日:2010年10月20日

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