信州上田 松尾町商店街

松尾町から上田を発信する 松尾町から上田を発信する

〜特集 ○ 信州上田で追い求めた〜
山本鼎と農民美術

文 ● 山本鼎記念館 小笠原正

はじめに

上田の伝統産業として今も大切に受け継がれている木彫工芸品「農民美術」。長野県伝統工芸品にも指定され、上田を訪れた旅のお土産に買い求めたり、お祝い品として贈られることも多いようです。農民美術の発祥は今から92年前の大正8年にさかのぼります。今でこそ、全国各地に「○ ○彫り」などのその土地ならではの木彫工芸品は数多くありますが、その源流とも言えるのが実は上田の農民美術なのです。それにしても「農民美術」とは独特なネーミングです。

そこには大正時代に農民美術運動を起こした山本鼎(やまもとかなえ・1882年—1946年)の思いが込められています。

山本鼎
農民美術練習所開所式。
神川小学校玄関1919年(大正8年)

山本鼎という人

山本鼎は明治15年に愛知県岡崎市で生まれ、その後、父・山本一郎が西洋医学の勉強のため上京すると、鼎も母に伴われて東京に移住しました。一郎はその後、神川村(現在の上田市神川地区)の大屋駅北側の高台に診療所を開業します。山本はこれをきっかけにして信州上田と深い関わりを持つようになりました。彼は島崎藤村に留学先のフランスで出会い、同じ信州生まれと間違えられたほどの人物です。山本は版画家、洋画家として活躍した人物で、特に「版画」という言葉を広く普及させたことでも知られています。そして、彼が上田の地で取り組んだのは、児童自由画教育運動と農民美術運動でした。彼自身は美術家としての成功には執着せず、地域の中に分け入ってこれらの活動を熱心に行い、全国に運動を広めていったことがいちばんの功績でした。現代で言えば、仕事を通して社会に貢献する「社会的企業家」と言えるかも知れません。

彼が上田で児童自由画教育運動と農民美術運動を始めるヒントを得たのは旅先のロシアでした。30代でフランス留学した帰途に立ち寄ったモスクワで、児童絵画の展覧会を見学し、子どもたちの自由な創造力や表現に心を揺り動かされたのです。また、農村工芸品展示館では、極寒の北国に暮らす農民たちの素朴ながらも美しい木彫品に触れ感銘を受けたのでした。

『パリ郊外(昼寝)』1912年頃
『漁夫』1904年(明治37年)創作版画の代表作
『中国風景(窓辺)』1912年(明治45年)

理想を追い求めて〜自由画教育と農民美術運動

モスクワを後にした山本は、シベリア鉄道の車中で考えていました。「ロシアの子どもたちが受けている自由な教育に比べ、今の日本の学校教育はお手本帳の絵をただ真似させているだけだ。子どもの創造性を伸ばすにはこれをやめさせなければいけない。

―― 農民があのように農閑期を使って立派な工芸品を作ることができて収入も得られるのだったら、日本でもできる ――。

帰国した山本は上田横町の料亭・菊与亭で、子どもたちの図画教育を改めようと熱心に語ったのでした。この話に共感した神川村国分の青年・金井正と山越脩蔵(しゅうぞう)(この二人は農民美術運動でも大きな役割を果たします)らとともに、大正8年4月、神川小学校で第1回児童自由画展覧会を開きます。展覧会には長野県内の54校から9800点の作品が寄せられ、千点余りが入選したのです。それまでお手本帳の絵をどれだけ上手に模写するかで成績を決められてきた子どもたちにとって、自分の感じたままに描いた絵が認められることほど嬉しいことはなかったでしょう。信州の一角で開かれた展覧会の反響は大きく、この運動は全国の学校に広まっていきました。私たちが小学校のころ自由に絵を描くことができたのも、その源流に山本の自由画教育の精神があったことを思い起こすと、大正時代という早い時期にこの運動を全国へ広めていった彼の「先見の明」を感じます。

神川小学校で開かれた
第1回児童自由画展覧会の賞状
児童が描いた自由画作品(大正時代)

児童自由画教育運動が成功すると、山本は心の中で温めていたもう一つの構想――農民美術運動に取りかかります。大正時代の上田地域では、多くの農家が農作業と養蚕を行っていました。今のような会社勤めはまだ少なかった時代です。冬の間は収入を得られる仕事が減ります。山本はこうした農閑期を使ってロシアの農民のように工芸品を作れば、寒い冬の間でも副収入が生まれ生活の助けになり、農村の人々が作品の製作を通して美術的文化的な素養も身につけることができると考えました。

山本は「農民美術とは農民の手により作られた美術的手芸品のこと」と命名の由来を説明しています。農民が製作した郷土色豊かな工芸品はすべて「農民美術」と呼んでいたわけで、木片人形やたばこ入れ、菓子鉢や皿などの木製品のほか、陶器や敷物、刺繍など、様々な品物が製作されました。

初期の農民美術作品(白樺巻き、たばこ入れ、小盆、鉢)
初期の農民美術作品(木片人形)

制作の拠点 大屋の「農民美術研究所」

大正8年12月、山本らが農民美術運動を始めるため、神川小学校(現在の上田市立神川小学校)の教室を借りて開所したのが「農民美術練習所」です。受講者は当初、中村實(みのる)を含め4人だけという状態でしたが、その後、受講生は徐々に増え翌年の3月には20人ほどになります。講習は開放的で、受講生の男女が時には歌を歌いながら楽しく行われました。こうして木片人形や白樺巻きの小物入れをはじめ様々な品物の製作が進められ5月には東京・日本橋の三越デパートで展示即売会が開かれています。即売会では1、100点あまりの作品の大半が売れ、予約注文もたくさん入ったのです。山本らは受講生たちの作品が売れ、お金になるということを大変喜んだそうです。

大正9年、練習所は神川小学校の教室から、国分の金井正宅の蚕室に移転し、大正12年には大屋駅北側の高台に北欧風三階建ての「日本農民美術研究所」が完成しました。一方、受講を修了した生徒たちによって日本農美生産組合が作られたのもこの頃です。

研究所は、山本や金井の出資のほか国などからの補助金を受けて、日本全国各地で講習会を開催し、農民美術製作者の養成に努めたのでした。県内でも50か所余りで講習会が開かれています。こうして最盛期には全国に50組合以上の農民美術生産者団体が結成されました。

山本は児童にとっての自由画の場合と同じく、農家の人々が自分の美的感性に基づいて作品を作るというプロセスを重視していました。単なる大量生産の「製品」では決して生み出すことのできない、その土地の人間の感性が表現された作品であることが山本にとっては大切だったのでしょう。形やデザインが多少いびつでもいっこうに構わなかったわけです。山本は農民美術運動を通して、人の中に眠っている創造力を引き出すことに成功したのです。

現代の農民美術 中村実作 飾り棚

受け継がれる山本の「思い」

昭和21年10月、山本鼎は64歳の生涯を上田の地で閉じます。戦争末期には全国の農民美術生産組合は解散状態となり製作活動も中断していました。しかし、間もなく運動の発祥地・上田で農民美術の製作を再開した人々によって昭和24年に農民美術連合会が結成されます。昭和30年からは数年にわたり県の養成制度によって若い世代の農民美術製作者の育成が行われました。昭和37年、山本に直接の教えを受けた中村實や当時の上田市長・堀込義雄などをはじめとする委員会が中心となり、多くの賛同者から寄付金を募り上田城跡公園の一角に山本鼎記念館が建設されました。これらの活動からも分かるように、山本が農民美術運動にかけた思いは、教えを受けた人々の心にしっかりと受け継がれ、復活を遂げたのです。

農民美術は現在、上田地域の地場産業として定着しました。農民美術作家の方にお話を伺うと「全ての人々には芸術を生み出す力があり、その可能性を信じて地方の農村で運動を実践したのが山本先生でした。先生の熱意や信念を我々は決して忘れてはならないでしょう」と熱く語るのです。農民美術のデザインも時代を経て変化を遂げています。しかし、黙々と制作した素朴な風合いにこそ上田人の心が垣間見えます。そういった意味で「農民美術」とは、我々の風土や気質をよく表した名前だと言えるかもしれません。

上田にある獅子舞
~暮らしと深く結びついた民俗芸能~

文 ● どらいもん

獅子舞って何?

上田駅前の、
中国・寧波市より贈られた獅子
房山獅子の天狗
房山獅子
房山獅子のお囃子

皆さん、獅子舞というものをご存じでしょうか?お正月のテレビなんかで、獅子のかぶりものをつけて大きな風呂敷の様な布をかぶって踊っているあれが獅子舞です。お正月の獅子舞の様に、数人で四足獣の姿を模して踊るのが西日本に多い「二人立ちの獅子舞」。これに対し、東日本に多い「一人立ちの獅子舞」は、獅子が三頭一組になり二足歩行で踊るのが特徴です。獅子舞の中には、鹿の頭や龍の頭をしたものなども存在しています。

獅子舞の歴史は古く、日本書紀ではお客様をお迎かえする時や仏寺建立の供養をする時に伎楽(ぎがく)が行われたと記載があります。この伎楽の一作法に獅子舞がありました。現在でも、神社が神事の際に行う演舞で獅子舞が踊り伝えられていたり、地域によっては祇園祭や道祖神祭などで踊り伝えられています。

獅子舞は地域社会が伝承してきた民俗芸能ですが、その運営は年々苦しくなっているように思います。人手不足や資金不足といった社会環境の変化もそうですが、地域の人々から信仰心が薄れてしまったこともその背景にあると思えます。地域の五穀豊穣、家内安全、無病息災を祈ってきた民間信仰は、現代には不要なものなのかもしれません。ただ、地域の獅子舞を残そうと懸命に努力されている方々や、一時は途絶えてしまったけれど自分達の地域の獅子舞を再び蘇らせようと努力されている方々もいらっしゃいます。今回は、全国で三千近くあるといわれる民俗芸能「獅子舞」を通して上田を見てみましょう。

上田に見る獅子舞

獅子舞は、上田が誇る民俗芸能です。現在でも上田には沢山の獅子舞があり、再び踊られるかもしれない獅子舞を含めると数はさらに増えます。数の多さだけではなくその歴史や伝承されてきたルーツ、種類、形状といった違いが神秘性をかもし出し非常に面白い地域だと感じます。

下之郷三頭獅子、岳の幟(たけののぼり)で踊られる獅子舞の前山三頭獅子などは頭が龍であったり、歴代の上田藩主達も獅子舞を丁重に扱っていた跡が見られたりするなど、地域で獅子舞を今に守り伝えています。
獅子舞の頭が龍の理由は、塩田地方では岳の幟のような雨乞いが今でも続いていたり、灌漑用のため池も多く作られているといったことなどから、水不足で大変悩まされた地域だったので水の神様である龍のかぶりものをするようになったといわれています。歴代の上田藩主達と獅子舞の関係も、例えば、上原区の三頭獅子は、真田幸隆あるいは長男信綱が屋敷の地固めの祭事に舞わせたのがはじまりで、そこから伝えられた常田獅子と房山獅子は真田昌幸が上田城を築城した地固めの祭事にそれまでの獅子舞を改作して踊られたものが今に伝えられてきているといわれています。
この時に、上室賀・下室賀・保野・別所(岳の幟)の獅子舞も地固めの式に奉納されたと伝えられていますし、次の藩主、仙石忠政の上田城修築でも先例にならい常田獅子と房山獅子が奉納されたと伝えられています。

その後、藩主が松平にかわっても六代目藩主で二度も老中を大任した松平忠固が上田城修築の際に、上室賀・下室賀の獅子舞に奉納の褒美として家紋の使用を許し今でも獅子の前垂(まえたれ)に五三の桐が使われています。

別所、岳の幟の獅子舞
房山獅子

上田獅子

真田坂のすぐ隣にある常田と房山の獅子舞は、上田を代表する歴史ある獅子舞なので「上田獅子」と総称されて呼ばれています。その姿が農民美術にも度々登場していることからも、獅子舞がここに暮らす住民の日常生活に広く浸透していたものだと感じられます。

上田獅子は3人で一緒に舞う一人立ちの三頭獅子です。そもそもは、それぞれの地域の祇園祭で踊られていたようですが、上田城築城の時やそれ以後の修築の度に奉納され、江戸期では城中に祝い事がある度に、明治の廃藩後は特別な祭典や慶事の時にだけ舞われるようになりました。現在でも橋の開通式や市制実施周年祝賀、特に毎年行われている「真田まつり(本年度の真田まつりは秋に移行)」には一年交代で常田獅子と房山獅子が踊られています。
普通の獅子舞には子供のささら舞がついているものですが上田の獅子舞の特徴として、代わりに烏天狗(常田)や小天狗(房山)の面をつけた子供の鐘叩きが一緒に舞います。常田獅子が「田植え」を表し、房山獅子が「稲刈り」を表した踊りだといわれていて、「田植え」を表した常田獅子は厳格で荒々しく、「稲刈り」を表した房山獅子は比較的大人しい踊りです。

また、現在では一緒に踊ることは難しいでしょうが、「田植え」が先で「稲刈り」が後と順番も決まっています。上田獅子の違いを探せば、獅子の格好もそうですし踊る向きが違っていたり、履いている足袋の色が違っていたり等々と結構ありますが、まぁ、実際にご自分の目で探してください(笑)。ちなみに、高い所から見下ろさないように見るのが獅子舞を見る時のマナーですのでご注意ください。

上田と獅子

「上田獅子」の名前のように、上田と獅子舞は非常に馴染み深い存在です。そういえば、上田では獅子舞以外にも「獅子」を良く見かけますね。農民美術の中にその姿があったり、上田駅の前に友好交流都市、中国・寧波市(にんぽー)からの中国獅子があったり、いろんな神社に狛犬があったりと。えっ、狛犬は「獅子」じゃないって!
半分正解です。

神社の狛犬は口を開けている方が「獅子」。口を閉じている方が「狛犬」。合わせて狛犬と呼ぶけど中身は「獅子と狛犬」なんです。
実は、大陸から伝わってきて奈良時代までは駅前の中国獅子の様に二匹とも獅子だったようですが、平安時代以降には獅子と狛犬の組み合わせになります。同時に、元々あった狛犬の角も簡略されていき昭和以降に作られた狛犬からは角が完全に消され、獅子との違いは口の開き方だけになってしまいました。置かれる場所も屋内から屋外になり木製から石や金属や陶器と材料も変わっていきます。さすがに「二匹とも獅子」とまではいきませんが古い狛犬(木製)が塩野神社(保野)や生島足島神社(下之郷)に保存されていますので、調べてみてください。

まぁ、「獅子舞」も「獅子」も元々の形とは変わってきたみたいですけど、これからも疫病退治、悪魔払いをするものとして上田を守っていって下さい。今回は、「上田にある獅子舞」を取材しましたがお読みになった皆さんは薄れつつある信仰心を少しは取り戻せましたか? 僕は、狛犬みたいに半分くらいは取り戻せたかな(笑)

常田獅子

●参考文献
『上田市の文化財』
『信濃の獅子舞と神楽』
『東日本の獅子舞と神楽』
『郷土の民俗 まつり』
『上田市誌民俗編 信仰と芸能』

●取材協力
上田市秘書課広報広聴係
上田市教育委員会
眞田神社、明倫会
常田獅子保存会
房山獅子保存会
保野祇園祭保存会

街歩きエッセイ

山極規恭

 私は松尾町に生まれ、高校卒業後の一時期を除いてずっとこの地に住んでいます。先日、PTA役員の家内に聞いて驚きました。4月から町内の小学生が二人になるとのこと。私は団塊の世代ではないけれど、小学校にあがった昭和30年代末頃は、この小さな自治体に同年生が7~8人もいて、町内には子供があふれかえり、集団で遊びまわっていました。数年前、この地域は準限界集落であるとの報道がありましたが、さもありなんと実感します。

駅前から北に延びるこの町は、昭和30年代後半から40年代にかけて道路拡幅されるまで、雑然とした街並みでした。風呂のない家も多く、近くに銭湯が何軒もありました。下水も未整備で、衛生状態は現在と比べものにはなりません。しかしながら、当時は、実に人間味あふれる生活ではなかったかと思うのです。夕方になると、各商店の奥からは夕餉の支度の匂いがし、町内では遊んでいる子供達を呼ぶ母親の声がありました。こうした記憶が刻み込まれているせいか、私にとってこの地は遠くから訪れる土地ではなく、暮らしていく場なのです。

中心市街地の衰退は、廃業などによる商店数の減少や地域の居住人口の急激な減少をもたらし、さらに高齢化も進みました。まちの賑わいや文化、地域の社会活動の担い手が減り、地域コミュニティの維持にも支障が出始めている気がします。中心市街地の活性化については、少子高齢化、特に生産年齢人口の減少に伴う税収減などの財政問題、既存インフラの有効活用など都市経営の面から論じられることも多いのですが、この地に暮らす私にとっては、大勢の子どもの声がして、若い人もお年寄りも一緒に暮らす地域社会の復活が最大の願いです。

団塊の世代に続き、私の年代も近い将来に第一線を退く時期がきます。故郷を離れ各地で頑張ってきた同郷の仲間も、産土に誘われて帰還を考えるでしょう。その時、この地域が心から帰ってきたいと感じてもらえる場所でありたいものです

編集室から

この度の東北地方太平洋沖地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈り致します。そして、被災された方々と共に、私たちは何をすべきかを考え、日本の復興を目指して歩んで行きたいと思います。

編集後記
真田坂最新号をお届けいたします。気が付けば18号。
そこで、これまでの『真田坂』のバックナンバー、紙面では語りきれなかった資料をご覧頂けるよう『真田坂キネマギャラリー・幻灯舎』内に展示コーナーを開設いたしました。
どうぞお気軽にお立ち寄りご覧ください。
そして、様々な角度から上田を語り合えれば幸いです。今後とも宜しくお願い申し上げます。

発行日:2011年3月25日
●ご意見、ご感想をお寄せ下さい。FAX0268-21-1100
●真田坂web:http://sanadazaka.jp
●発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
●理事長:寺島秀則
●「真田坂」担当理事:志摩充彦
●スタッフ:飯島新一郎/久保田康之/佐藤隆平/平林敏夫/増田芳希/町田和幸/矢島嘉豊