真田坂 第19号
〜特集 ○ 上田で映画のロケーションが多い理由〜
映画の街〈上田〉の誕生とこれから
文 ● 上原正裕(うえだ城下町映画祭実行委員)
映画が好きになると、心に残った作品の原作や監督、背景に流れる音楽などに興味が広がり、やがて映画の撮影地も気になってくるもの。そして、舞台になった街や、ロケーションされた場所を訪ねてみたくなります。それが外国映画だったら大旅行になりますが、日本映画なら気軽に実行できます。上田とその周辺は、映画の世界に想いを馳せ、旅ができる楽しい街なのです。
なぜ、上田でロケが多いのか…
当地は、大正時代から現在に至るまで、地方市町村では、他に例がないほど多くの映画ロケが行われてきました。その理由として、東京から近郊であった事、四季の情感が豊かな日本の原風景があり、北国街道沿いなどに明治以降の町並みが残っていた事、周りに大勢のスタッフ、キャ(右)『絹代物語』撮影時の記念写真。上田の映画ファンと市内料亭にて。(左)電気館を訪れた田中絹代を囲んで。ストが宿泊できる温泉施設が多かった事、等の理由があげられます。そして、もうひとつ重要なことは、この地の年間降水量が、全国でも北海道の一部地域に次ぐ少なさだったことです。これにより、ロケが予定通り進んだのです。
しかし、これだけではありませんでした。上田にやってきた映画人たちと積極的に交流をした映画ファンたちがいたのです。
蚕業の繁栄と白亜の映画館
江戸時代から「上田紬」で全国に知られた上田は、明治・大正期には、蚕種と生糸の生産地としても有数の地となります。このような蚕業の繁栄に伴い、明治17年には、県下に設立された銀行及びその類似会社の数が全国一となり、その約7割が上田及び小県地区でした。また、明治29年には、県下初の商業会議所(後に商工会議所)が開所されています。そして、大正6年に「上田劇場」(現・上田映画劇場)、8年に「上田演芸館」(柳町)、10年には「上田電気館」(現・上田でんき館)と、地方では珍しいコンクリートによる洋式映画常設劇場が次々に開館し、多くの映画ファンが生まれたのです。
上田は、屋根のない松竹撮影所
我が家のアルバムには、訳あって戦前の映画関係写真が多数保存されています。その中の一枚は、昭和5年(1930年)に上田市内の料亭で撮影されたもの。松竹映画『絹代物語』のロケが行われ、監督の五所平之助、主演の田中絹代をはじめとするスタッフ、キャスト一行や、歓迎する地元の有志たちが写っています。実は、この映画をきっかけに、上田の人々と映画人との交流が始まったことがわかってきました。
上田市観光課や信州上田フィルムコミッションの調査で確認されている上田ロケ映画の最古作品は、関東大震災が起きた大正12年(1923年)の正月に公開された松竹・蒲田映画『乃木大将・幼年時代』(島津保次郎監督)です。続いて、『乃木大将伝』(大14・牛原虚彦監督)、『孤児』(大15・野村芳亭監督)で、その後が『絹代物語』となります。それらのロケ映画がすべて松竹作品であり、メロドラマのヒットメーカーだった野村は、松竹理事でしかも城戸四郎に替わるまで蒲田撮影所長も兼ねていました。撮影所内では、「どんな時代設定でも、山あいの町を舞台にした映画なら、上田で撮れるぞ!」が、合言葉になっていたはず。こうして、上田に五所組のロケ隊が大挙してやってきたのです。
昭和の日本映画を代表する大女優の一人である田中は、松竹入社後、『恥ずかしい夢』(昭3・五所)が好評を博し、19歳で会社の看板スター兼幹部に昇進します。昭和4年から5年の2年間の出演作は何と22本。その後、日本初のトーキー映画『マダムと女房』(昭6・五所)や、『愛染かつら』(昭13・野村浩将監督)の大ヒット、さらに溝口健二、成瀬巳喜男などの名作に出演し、戦後も長い間、演技派として活躍、女流監督としても有名です。若くして名前がタイトルになるほどの人気スターが上田にくる。そして、名前が知れ渡った五所作品です。上田在住の映画ファンたちは、いてもたってもいられなくなったことでしょう。
ロケ地〈上田〉を推し進めた人たち
前述の写真に収まる上田の映画ファンたちの中に、当時、雑誌「蚕糸」編集長の馬場直二郎(後に塩尻村議、上田蚕種協業組合理事)、映画に精通していた上田商工会議所理事の岡田賢治(現在の専務理事職で、昭和16年に一旦退き24~30年まで理事再任、横浜へ帰郷後も映画人との交流を続けた)、松竹直営館だった上田電気館社長の森田勝太郎(明治33年に上田菓子商組合初代理事、昭和27年に映劇の駒崎家に譲るまで森田家は電気館を経営)、そして、同館支配人の小宮山善二郎(本名・上原善二郎。後に松竹本社に勤務、大谷社長秘書や都内劇場総支配人、戦後は上田へ帰郷、社会保険労務士の草分けの一人に)等の顔があります。映画を愛する上田の人々が、上田ロケ・サポートに立ち上がった瞬間の写真ということになるわけです。
彼らのほとんどが、五所監督と同世代(明治30年代生まれ)だったので、話が合ったことでしょう。特に、馬場と五所の交流は深いものとなり、この後も五所は映画史に残る『伊豆の踊子』(昭8・田中主演)など4本のロケを上田で行います。馬場らは、他の監督による松竹映画ロケにも同行して協力を惜しみませんでした。小津安二郎監督も『一人息子』(昭8)を撮影しています。やがて、「上田のロケは、居心地がいい!」という噂は他社にまで広がり、日活、大映、東宝のロケ隊も続きました。後に、世界のクロサワとして知られることになる黒澤明の処女監督作『姿三四郎』(昭18)も、当地で撮影されました。そして、戦後も、馬場、岡田らのロケ支援は続き、上田には多くの映画ロケ隊が訪れました。
なお、日本の脚本家ベスト25(平成16年・双葉十三郎選出)に選ばれた上田市出身の成澤昌茂(溝口作品や、中村錦之助、高峰秀子の諸傑作で有名)が、松竹・下加茂撮影所の助監督からスタートしているのも、何かの縁を感じますね。
ロケに協力的な上田の人たち
最近も、市内の街角で映画やテレビ、音楽プロモーション映像ロケが度々行われていますが、市民はあまり驚かないし、決して迷惑がりません。逆に「ほ~、今日は何を撮影してるだい」と、嬉しそうに声をかけてきたりします。車を止められても、嫌な顔をせず迂回してくれます。誰が頼んだわけでもないのに、スタッフにお茶や漬物が運ばれたり、協力体制がいつの間にか市民の身についているふしがあるのです。こうした自然体の応援があってこそ、撮影がスムーズに進むわけです。
ロケ作品詳細リストを眺めますと、複数の映画人が二度三度と上田でロケをしています。これは、物質面だけではなく、現在まで続く様々な形での人的交流が良好だったこと、地元の映画館主や近隣の宿泊先となった温泉旅館などの温かいもてなしがあったからに違いありません。これらの活動は、現在日本中で設立されているフィルムコミッションの先駆けだったと言えます。2001年には、上田に大都市以外では初のフィルムコミッションが生まれますが、その土壌は既にあったのです。
様々な「上田物語」と街の魅力
古今の名作映画に、様々な上田が永遠に記録されていることは、貴重な財産です。活用の仕方により、街の知名度が上がり、市民の自信や誇りが生まれ、経済効果など街の活性化にもつながります。より魅力的な街づくりのために、この財産を大切に活かしたいと強く思います。
これからも、新しい「上田物語」が、次々に紡ぎだされてゆきます。身近すぎて地元の人でも気づかない上田の姿を、そこで発見するかもしれません。そして、映画に感動した人たちが全国から駆けつけたとき、ここで映画を超える素晴らしい街に出逢えれば最高ですね。
(文中の敬称は略させていただきました)
代表的な上田ロケーションの作品
タイトル(公開年) | 監督 | 主なロケ場所 |
---|---|---|
乃木大将幼年時代(1923) | 島津保次郎 | 上田城跡公園 |
乃木大将伝(1925) | 牛原虚彦 | 別所院内、湯の入り地籍 |
絹代物語(1930) | 五所平之助 | 別所、丸子 |
恋の花咲く 伊豆の踊子(1933) | 五所平之助 | 別所、西塩田 |
一人息子(1936) | 小津安二郎 | 西塩田、旧西塩田小学校、笠原工業 |
鶴八鶴次郎(1938) | 成瀬巳喜男 | 矢出沢川、市街地 |
爆音(1939) | 田坂具隆 | 山田、法輪寺、矢木沢、舌喰池、 仁古田の民家、生田の民家 |
或る女(1942) | 渋谷実 | 上塩尻、千曲川河畔 |
姿三四郎(1943) | 黒澤明 | 木陽寺(鍛治町) |
次男坊(1953) | 野村芳太郎 | 上田高校、上田城跡公園、信州大学繊維学部、 西上田駅(当時の市議会議員総出演) |
次郎物語(1955) | 清水宏 | 西塩田、東塩田、生田 |
スター誕生(1963) | 酒井欣也 | 上田駅、袋町、大屋 |
青春とはなんだ(1965) | 舛田利雄 | 三中(三中ブラスバンドエキストラ出演)、 北小、真田町(現上田市)、小諸、中込駅 |
水で書かれた物語(1965) | 吉田喜重 | 重呈連寺付近、上田丸子電鉄北東線 |
けんかえれじい(1966) | 鈴木清順 | 上田城、新参町教会、上田高校、新町、上塩尻 |
青い山脈(1975) | 河崎義祐 | 北小学校、生塚、柳町 |
犬神家の一族(1976) | 市川崑 | 旧北国街道(常田、柳町)、上田蚕種協業組合、 常田の民家 |
野性の証明(1978)佐 | 佐藤純彌 | 菅平、唐沢の滝 |
楢山節考(1983) | 今村昌平 | 鴻之巣自然公園、別所(幕宮池下付近) |
ひめゆりの塔(1995) | 神山征二郎 | 浦里小学校 |
君を忘れない(1995) | 渡邊孝好 | 柳町 |
男はつらいよ 寅次郎純情詩集(1976) | 山田洋次 | 別所温泉街、塩田、前山寺 |
卓球温泉(1998) | 山川元 | 旧西塩田小学校、別所温泉、田沢温泉、 市内の床屋、スナック |
学校の怪談4(1999) | 平山秀幸 | 幸旧西塩田小学校、常田の通り |
淀川長治物語 神戸編サイナラ(2000) | 大林宣彦 | 柳町、別所温泉、信州大学繊維学部、 浦里小学校 |
告別(2001) | 大林宣彦 | 上塩尻の民家、手塚、別所森林公園 |
信州上田FC設立以降
ロストメモリーズ(2002) | イ・シミョン | 大輪寺、柳町、緑が丘、大手町 |
およう(2002) | 関本郁夫 | 上田蚕種株式会社、千曲川河川敷、別所温泉、須川湖 |
たそがれ清兵衛(2003) | 山田洋次 | 高橋 |
スパイ・ゾルゲ(2003) | 篠田正浩 | 浦里小学校 |
さよなら、クロ(2003) | 松岡錠司 | 北小学校、塩田中学校 |
理由(2004) | 大林宣彦 | 上田市川西支所、浦里小学校、東前山、信州国際音楽村、 市民の森・わしば山荘、花のマルズミ、新町自治会館 |
血と骨(2004) | 崔洋一 | 塩田中学校 |
博士の愛した数式(2006) | 小泉堯史 | 上田城跡公園野球場、サイクリングロード、 千曲川河川敷 |
嫌われ松子の一生(2006) | 中島哲也 | 塩田中学校、しなの鉄道 |
恋する日曜日(2006) | 廣木隆一 | 五中、上田城跡公園、柳町、海野町、 北大手町、仁古田、大屋駅 |
犬神家の一族(2007) | 市川崑 | 柳町、上田蚕種株式会社、大屋駅、 西上田駅、藤原田の民家、海野宿 |
監督・ばんざい!(2007) | 北野武 | 上田城跡公園 |
ラストゲーム -最後の早慶戦(2008) | 神山征二郎 | 上田城跡公園野球場、信州大学繊維学部、 浦里小学校、上田蚕種株式会社、鍛治町の民家 |
サマーウォーズ(2009) | 細田守 | 砥石、米山城、上田城跡公園、別所線、 上田駅、その他上田全域 |
ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ(2009) | 根岸吉太郎 | 上田蚕種株式会社 |
ゼロの焦点(2009) | 犬童一心 | 浦里小学校、信州大学繊維学部 |
●参考文献『図説・上田の歴史』郷土出版社 1980
『キネマの世紀~映画の百年、松竹の百年』フィルムアート社 1995
『シネマ&フォーラム’95』上田商業21世紀会 1995
『花も嵐も~女優・田中絹代の生涯』古川薫/文春文庫 2004
『週刊映画』上田市原町・週刊映画新聞社 1956・1・22号
上田と映画と映画館
映画な街うえだ
文・どらいもん
持ち込まれた紙袋の中身
それは、映画撮影にはもってこいの良く晴れたドライな日、一袋の紙袋が真田坂にあるキネマギャラリーに届けられました。ギャラリーのオーナーは、「廃品回収業者じゃないぞ」と思いながらも、わざわざ持ってきていただいた紙袋を丁寧に開き中を覗き込むとそこには想像を裏切る驚きの世界が広がっていました。中には、映画チラシがぎっしりです。
遠藤哲夫さん、この大量のチラシを持ち込んだ方です。なんでも、家を掃除したときに見つけましたが、どうしたものかと思い車のトランクで保管していたチラシだとか。自分ではどうすることもできないので、このギャラリーで役に立てて欲しいということでした。
この大量のチラシは、遠藤さんの15歳から20歳位までのキネマの想い出。高校時代は、購買で前売り券を購入するために毎日の昼食代をけずって土曜日に映画館に通っていた程の映画好きな高校生だったそうです。昭和29年、当時は、映画館の高校生料金が120円の時代です。チラシには思わず引きずり込まれそうな上映広告の文字が躍り人気俳優達のカットが写っています。二本立て、三本立て入れ替えなしの上映が1週間ごとに入れ替わり、当時の映画館の熱気、人々がいかに映画に熱狂していたかが伝わっ夜、ライトアップされた上田電気館昭和?年頃てきます。聞いたこともない作品が飛び出し、今となっては手にすることも出来ない貴重なものでした。
この頃は、映画産業の黄金期。他に娯楽が少なかった為か、観客数も多い。映画製作会社も多い。技術的にも、遠藤さんが子供の頃に初めて見たという「石の花」(旧ソ連)の「洞窟のきれいな映像のすばらしさに感動したこと今でも覚えている」と話してくれるように、それまで白黒だった映画が、総天然色へと変わりつつあった時代でした。「総天然色」、今ではほぼ聞くことがない言葉ですが、簡単に説明するとカラー映画の旧称とでも訳しておけばよいでしょうか。
それまでにあった白黒映画・人工着色映画(白黒に後から色を加えた物)と区別する為に、当時は、自然にある色彩を表現するという意味で「総天然色」という言葉が使われていた様です。ふと、そんな時代の「映画の街うえだ」はどうなっていたんだろう?そんな疑問が生まれ、少し調べてみることにしました。
上田にあった映画館
上田市立図書館で、昭和35年の住宅地図を見てみました。なぜ昭和35年かというと、それ以前は、終戦の影響で住宅地図なんて作る余裕が無かった時代で、簡単にいうと「存在しない」という訳です。駅を降りて真田坂をたどっていくと、上田ニューパール劇場(天神)、上田東映劇場(でんき館・本町)、上田映画劇場(本町)、東横劇場(横町)、テアトル劇場(房山)、上田中央劇場(原町)の六つ映画館を見つけることができました。この狭い距離に六軒も必要なのかと思う程の軒数です。
上田の映画館の歴史をたどるには、芝居小屋から始めることになります。明治時代、木町に中村座という芝居小屋が建てられ歌舞伎をはじめ様々な芸能が披露されていました。その後、末広座が緑町(本町)に建てられ、大正時代には、末広座の跡地に上田映画劇場が建てられていくという様に、芝居小屋から映画館へと姿を変えたり、常設映画館が建設されて行くことになります。
中でも、終戦後に建てられた東横劇場に興味を持ちました。洋画の上映館でしたが、映画衰退期にはいわゆるピンク系の映画が上映され、入りたくても入れなかった映画館だったからという訳ではありませんが、その建てられた場所が、横町にある伊勢宮神社のお船の天王保管庫あたりなのです。この場所は、明治16年小県郡神道事務支局小教院が建ち神職合議所として使われていました。その後、明治29年県下に先駆けて商業会議所(商工会議所)が設立、大正10年、日本で初めて市民によって自主的に作られた「上田自由大学」がおかれた場所でもあります。こんな、由緒あるお固いイメージの場所に、終戦という混乱期を経てどのような経緯でピンク系の映画館が建ったのか不思議です。調べても分りませんでしたが、きっと癒しを求めていたということなのでしょうか(笑)
当時の映画の様子
さて、ストーリーは脱線してしまいましたが、当時の映画は、どんな映画だったのでしょうか?総天然色映画がはじまったということは既に述べさせていただきましたが、その少し前の昭和初期にも画期的な出来事が起きています。いわゆる、トーキー映画と言われるものの誕生です。トーキー映画が誕生するまでは、映画はサイレント映画(無声映画)といわれる音声が無い映画でした。この時代、日本では映画製造会社も多く、映画製作本数ではアメリカに迫る勢いでした。トーキーの製作はかなり早かった様ですが、映画全体がトーキーに完全に移行するのは、西洋よりも時間がかかったと言われています。実際に、昭和13年になっても日本では3分の1の映画がサイレント映画だったようです。
日本でトーキー映画が広がりにくかった背景には、活動弁士の存在が大きかったからだと言われています。活動弁士は映画の上映中にその内容を舞台上で語り解説する職業です。弁士はその話芸によって、アフレコを入れたり、音量を下げたり、効果音を入れたりと、時には、本来の映画とは全く違う内容になってしまうということもあったようです。当然、弁士によっては面白いと人気の弁士も生まれ、かなりの高給取りになる人もでて、当時の映画ファンに愛され親しまれていました。また、映画館によっては、自前のジンタ(吹奏楽隊・真田坂l3号参照)を雇っていたところもあり、上田でも上田電気館は自前のジンタを雇っていました。
このように、活動弁士やジンタといった映画を生活の糧にしていた方も多かったということが、日本でトーキー映画が広がりにくかった理由でしょう。
9月24日~10月23日 幻灯舎にて『なつかしの映画チラシ展』を開催
映画〝な〟街うえだ
さて、このサイレント映画も字幕スーパーの出現と共に次第に少なくなって行きます。字幕スーパー付きの映画は、映画館側が活動弁士やジンタに賃金を支払わずに済む。ある意味で経営的選択であったのでしょう。なんとなく寂しいと感じながらも、ふと映画は経済効率優先のものであってよいのだろうかと考えてしまいます。確かに、経済的な成功は必要なことでしょう。しかし、映画が経済的成功だけを目的としているのであれば、経済的でないのにも関わらず映画を作り続けている監督やスタップがいるのは何故でしょう。例えば、『ゆうばり国際ファンタスティック映画祭』というものがあります。世界的に知られる映画祭になりつつありましたが、運営費を負担してきた夕張市が財政再建団体となったため一旦は中止となってしまいました。しかし、映画祭の灯を消したくないと思う人々の手で、『ゆうばり応援映画祭』が開催され、さらに市民の有志と映画祭の元スタッフによって設立した『NPO法人ゆうばりファンタ』によって、ゆうばりファンタスティック映画祭は再開されました。何故でしょう。そこには、映画を愛している人達の姿があります。きっと、愛しているからこそ経済的成功だけを目的とせず、映画を作り、応援しているのだと思います。映画には計り知れない魅力があるのです。
そんなことを感じながら、「映画の街うえだ」を考えてみました。上田で映画を見るなら、今や駐車場も広くて買い物もできる、単館映画館より経済的(?)なシネコンです。映画の撮影にも使われた、河川や街並みもきれいに整備され、その姿を変えつつあります。でも「映画の街」って何でしょうか?
僕は、「映画〝の〟街うえだ」は「映画〝な〟街うえだ」であって欲しいと思います。映画の様に、経済的成功だけを目的としない。新しいものだけが良いのではなく、変えないという選択、守るという選択の中にも価値を見いだす。そんな映画の様な価値観をもったまちであって欲しいと思います。まさに、紙袋に入っていた映画チラシの様に、それは価値のあるものとして輝くでしょう。
●参考文献『史的二上田』 社会教育大学歴史研究科 飛古路の会
街歩きエッセイ
八十二銀行上田支店 岩戸啓二
私が上田にお世話になるようになって、2年が経ちました。仕事柄、いくつかの地域を転勤してきましたが、今が一番「街」を肌で感じています。最初は「やたらイベントお祭りが多い街だな」と思いましたが、もともとお祭り好きの私は家族と一緒にお祭りに参加させていただきました(実は妻もお祭り好きなのです)。参加するたびに、皆さんの地元に対する思いや暖かさに触れ、今では上田が大好きになりました。私の妻や子供まで顔を覚えていて声をかけてくださる。嬉しさと感謝でいっぱいです。
さて、そんな私ですが独身時代は、街歩きなど意識したことはありませんでした。今では、週末といえば家族一緒に街へ出かけます。つまみ食いや、お店の方との会話を楽しんでいます。私も妻も仲良くなりたくて仕方ありません。先日、ながの東急で息子が泣いていると、上田で仲良くなったあるお店の奥様が「真一くんが泣いている」と駆けつけてくれました。そんな触れあいを求めて今週も街に出かけます。
中心市街地の衰退といわれておりますが、私は悲観していません。先日「松尾町フードサロン」がオープンしましたが、皆さんが手作りで始められた姿、それを支援している方々、そんな姿を見て、元気づけられました。明るく元気な姿が「街」であり、「街は元気をくれるところ」のような気がします。
職業柄、これからもいろいろな街を転勤して歩きます。上田の楽しさはしっかり伝えていきます。そして、退職後には妻の実家(坂城町)から上田のお世話になりたいと思います。その際は、今と同様に暖かくお迎えください。
〜今、まちに必要なもの〜松尾町フードサロン
その答えのひとつが松尾町フードサロンです。施設は、人々が集う憩いの場としたいと考え、1階にカフェとショップ、2階には本格的な厨房とコミュニティスペース、LED野菜工場、会議室、バーを作りました。厨房は、地域の人と一緒になって料理教室などに使用していただけるように開放しています。会議室も借主の好意により、広く一般に開放しています。会議等に利用するほかにも、バーやコミュニティスペースとの一体利用で、最大で50名程度の催事も開催できます。宴会には、地元の食材を中心に心のこもった料理も提供します。従来の商店街とは、違った視点から多くの方に使用していただけるようにとの思いで溢れている施設です。
編集後記
発行日:2011年9月25日
お待たせいたしました。真田坂19号をお届けいたします。
5 月にフードサロンがオープン、新しい試みを織り交ぜ、街として取り組んでおります。
今号は映画と上田に焦点を置き、映画黎明期から連綿と続く上田の熱気をお伝えできれば幸いです。
古きを知り、守り、また新しい試みにも挑戦していく、そんな街でありたいと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
●ご意見、ご感想をお寄せ下さい。FAX 0268-21-1100
● 真田坂web:http://sanadazaka.jp
● 発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
● 理事長:寺島秀則
●「真田坂」担当理事:飯島新一郎
● スタッフ:志摩充彦/佐藤隆平/平林敏夫/増田芳希/町田和幸/矢島