真田坂 第22号
松平忠優・考~グローバリズムの先駆者~
文 ○ドライもん
皆さんは、最近の貿易協定の話題をどう思いますか?ひょっとしたら日本の転換点かもしれないと感じませんか。日本が締結する予定の協定は、TPP、EPA、FTA、RCEP、そして、EU(欧州連合)とも協定を推進することで協議が進んでいます。こんなに沢山のチンプンカンプンな貿易協定が結ばれると日本の未来はどうなるの? と心配になりますが、もしかしたら開国へと日本の舵をきった上田から未来のヒントが見つかるかもしれません。
今回のテーマは上田と貿易です。海なし県の上田が貿易?「何をアホな」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、製造業の多い上田からは今でも多くの部品や機械が世界に輸出されています。明治・大正時代には蚕都上田と呼ばれ生糸を横浜から輸出することで近代国家の発展に貢献した地域でもあります。幕末から維新を経てアメリカでナイロンが発明されるまでは生糸の輸出で上田が日本を牽引していました。時は幕末。黒船来航によって開国をせまられた江戸幕府は大混乱し、異国排斥を唱える攘夷論が国内で高まりました。事態を打開する為に、幕政を取りまとめていた老中首座・阿部正弘は朝廷や公家、各大名から旗本、さらには庶民に至るまで意見を求めます。結局、良案も出ずに結論も出せない幕府は求心力を失っていきます。そして、外様大名や公家、前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)など攘夷を唱える勢力が幕政に参加してくるようになりました。
政局の混乱の中、幕府の行く末を懸念し日本の将来を真剣に考えていた人物がいます。上田藩主・松平忠優(ただます)です。徳川家康の血族である譜代大名の松平忠優は、上田紬の販路拡大など上田の商業振興に大阪城代(じょうだい)として尽力し、いち早く貿易の可能性を見出しました。老中となっても一貫して開国を主張し日米和親条約(1894年)の締結にも尽力した人物です。この後、攘夷を譲らなかった徳川斉昭と対立し失脚させられますが、難局を乗り切るために1857年に再度老中に就任、この時に名を忠固(ただかた)と改めました。
当時、徳川斉昭と対立して開国を主張することはどういうことだったのでしょうか? 徳川斉昭という人物は、藩政改革に成功した幕末期の名君の一人ともいわれていた実力者。徳川御三家という高い地位から強烈な発言力をもって幕政に関与し、さらに、御三家の中で水戸徳川は将軍を出せないきまりがあったにも関わらず、御三卿(ごさんきょう)である一橋家を介して実子を将軍の後継に出したほどの人物です。これが、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)なのです。このように名実ともに力をもっていた、攘夷派の徳川斉昭と対立して開国を主張し続けることは、何倍返しもくらう覚悟が必要です(笑)。松平忠優の開国にかける使命感と信念は並大抵なものではなかったのでしょう。
結局、松平忠優は、貿易協定である日米修好通商条約(1858年)を天皇の許可を得ないで締結した責任を負わされ老中職を解任されてしまいます。補足ですが、孝明天皇がかたくなな攘夷論者だったので許可は絶対に出なかったと言われています。貿易立国として日本がその後花開くことになっていったことを見ると、開国の交渉者としての判断に間違いはなかったと思います。松平忠優が蒔いた開国の種が後に大きく実を結び、上田藩は1859年には、横浜でいち早く貿易を始め大成功を収めます。そして、上田の生糸や紬が横浜から世界に輸出されていくようになったのです。その結果、信州各地には生糸買い付けのために銀行が31行も出来ました。また、輸出用の生糸の基になる蚕種(たまご)の生産も始まり、上田は日本有数の生産地になっていきました。
江戸幕府から政権を引き継いだ明治政府では、治外法権と関税自主権を欠いた不平等条約の改正と貿易による外貨獲得が課題となりました。その外貨獲得の主力産業として養蚕業・製糸業が大きな役割を果たします。言いかえれば近代日本を支えた経済基盤でした。外貨を獲得し富国強兵を推し進めることで、日清・日露戦争に勝利し開国から50年を経て欧米諸国からようやく不平等条約の改正を勝ち取りました。その国造りの基礎を上田の殿様が築いたのです。
今、私たちは貿易の恩恵で豊かな生活を送っていますが、その背景や歴史を考える事はたまにはおもしろいものです。上田に縁が深い佐久間象山に会いに上田藩を訪問した高杉晋作の言葉から。「おもしろきこともなき世をおもしろく……」日本の未来も上田の未来もきっと心の持ちようで大きく変わっていきますね。
【参考文献】
日本経済新聞
日本政治史 幕末維新、明治国家の成立/東京大学出版
信州人のための幕末史/ほおずき書籍
上田藩松平家物語/郷土出版社
*
[TPP]環太平洋経済連携協定、
[EPA]オーストラリア、モンゴル、コロンビア、トルコとの2国間での経済連携協定
[FTA]日中韓3カ国の自由貿易協定
[RCEP]日中韓と東南アジア諸国連合(ASEAN)を中心とした16カ国による東アジア地域包括的経済連携
復興上田城~時代に翻弄された上田の城~
真田人気に支えられて観光客でにぎわう上田城は、誰もが認める上田で一番の観光名所だ。いつでも気軽に散策ができ、千本桜祭りや紅葉祭りなど四季のイベントも楽しむことができる上田城は、市民の憩いの場として深く愛されている場所でもある。上田にとって誇りであり、大切な存在となっている上田城だが不遇を託ったこともあった……。
文 ○飯島新一郎
上田城に対する評価は、その時代その時代で大きく揺れ動いてきました。ここでは江戸時代から現代にいたるまでの歴史を通じ、上田城がどういった扱いを受けてきたのか紐解いていきます。
カラスのねぐら
天下人の徳川氏を2度も打ち破ったいわくつきの上田城は、江戸時代、何かと腫れものに触るような扱いを受けていました。その頃の上田城は「カラスのねぐら」と揶揄されていました。カラスの巣にされるようなうっそうとした林だらけの、廃墟同然だったということです。大木になった松や杉だけでも950本あったとの記録が残っていて、幕末の上田藩士で軍学者である赤松小三郎が「カラスの番人などやっておれぬ」とぼやいていたとの話もあるくらいです。城を守るべき立場の藩士自身が上田城を蔑んでいた、というのが実状だったのです。
二束三文での叩き売り
明治維新後の廃城令により、明治7年(1874年)に上田城の本丸・二の丸の土地・建物・樹木に至るまでその全てが払い下げとなります。本丸にあった櫓はたった6円で払い下げられており、これは現在の貨幣価値に換算しても5万円程度の叩き売りです。かろうじて西櫓一棟だけが払い下げを免れてそのまま残されましたが、その他の櫓や蔵の建物は次々に取り壊されて四散してしまいました。
払い下げられた後の建物が取り壊されてしまうのは、上田城に限ったことではありません。例えば現在は懐古園の名で親しまれている小諸城も、三の門と大手門を除いてことごとく壊されてしまっています。政治的に不安定な時期でしたので、廃城に建物が残っていては不満分子が決起した時に拠点とされる恐れがある、という明治新政府の思惑もあったのです。
公園化と、南北櫓の再建
廃城となった後の上田城跡は、桑園や麦畑などになっていました。その中で明治18年(1885年)、豪商の丸山平八郎が本丸の土地の大部分を寄付したのがきっかけで、上田城跡の公園化が始まりました。さらに大正時代に上田市が二の丸跡地のほぼ全域を買上げ、現在の市民公園としての上田城跡の形になったのです。昭和9年には国の史跡に指定されました。
払い下げられた櫓のうち、南・北櫓の2棟については移築されて、現在の緑が丘地区にあった遊郭の金秋楼と万豊楼の建物として使われていましたが、昭和5年頃に廃業。持ち主から上田市へと寄贈したいとの申し出も、移築に多額の費用が必要だったのでなかなか実現しませんでした。
そうこうしているうちに、この2棟の櫓が東京の料亭に売却されてしまう、という事態になってしまいます。これが新聞で大きく報道されると、市民の間から「上田城の櫓がよそへ移されるのは忍びない、何としても買い戻して元の上田城跡公園へと戻したい」との声が起こりました。買い戻し運動の中心になったのが、現在も松尾町にある飯島商店の社長で、みすゞ飴の創始者である飯島新三郎です。太平洋戦争まっただ中の昭和17年に「上田城阯保存会」を結成し、浅井敬吾市長を会長、自らは委員長と副会長を兼任して市民有志からの募金を呼びかけました。そして戦中戦後の大混乱の中でも着々と工事を進め、昭和24年に南・北櫓は元の上田城へと戻りました。
かかった費用が76万6684円、集まった寄付金が73万9300円。ほぼ費用全額をまかなう寄付金が集まったのです。寄付金の芳名帳は6冊にもおよび、当時の名士や企業が300件以上ずらりと名を連ねています。このことは、櫓の復元が上田市民の誰にとっても悲願であり、まさに市民の総力を挙げた運動だったことを物語っています。
市民の上田城
粗略な扱いを受けていた江戸時代と比べて、明治時代に公園化してからの上田城は市民に大切にされ続けています。この扱いの差は、何故でしょう?
あくまで想像ですが、上田城を蔑んでいたのは侍の価値観でしか無く、もともと民衆は真田氏と上田城が大好きだったのではないでしょうか。その裏付けとして、明治初期、上田城の櫓を「真田櫓」と市民が呼んでいたとの記録があります。実際には仙石氏が建てた櫓ですし、その後160年も松平氏が藩主として君臨していたにも関わらず、「仙石櫓」とも「松平櫓」とも呼ばれなかったのです。今も昔も真田贔ひいき屓の上田市民の共有財産になったからこそ、上田城は大切に守られているのでしょう。
【参考文献】
郷土の歴史上田城/
昭和63年、上田市立博物館上田市誌人物編「明日をひらいた上田の人々」/
平成15年、上田市
【取材協力】
上田市立博物館
上田市役所観光課
花岡塗~お抱え鞘師が編み出した幻の技~
文 ○増田芳希
花岡塗りとの出会い
花岡塗りに出会ったのは、上田市立博物館でした。ガラスの向こうに、朱塗りの地に金、緑、赤、黄色などの鮮やかな彩りで花のような図柄が描かれた御重がありました。それまでに目にした塗り物にはない力強さに驚かされました。漆塗りといえば輪島塗、会津塗りなどが有名で、長野県内では木曽塗りです。上田に漆塗りがあるとは思いも及びませんでした。さらに衝撃を受けたのは上田藩主、松平家に残された陣笠を見た時でした。家紋の五三の桐が色鮮やかに辺り一面と散りばめられていました。あたかも秋の紅葉に輝く山のようで、その自由な表現、美しさに圧倒されたのでした。
漆塗りとは
漆塗りとは英語ではjapanと呼ばれ、日本を代表する美術工芸品です。
漆はアジア原産のウルシ科ウルシ属の落葉香木樹の樹液で天然の塗料、接着剤として使われてきました。縄文時代には矢尻の固定に使われており、椀や竹篭などの日用品や櫛などの装飾品にも塗られていました。天平時代には中国から優れた漆塗りの技法が渡来し、瞬く間に日本国内に広がって行きました。
漆の実は蝋の原料ともなる有益なものであり、朝廷では大蔵省の下に漆部司が置かれ、全国に漆の栽培が奨励されました。時代を経るにつれその技法は益々洗練され、蒔絵、漆絵、螺鈿、平文、沈金、箔絵などが日本のものとして成熟していきます。日本全国に漆の木があり、塗師屋があり、漆職人がいたのです。当然、上田にも。
そして花岡塗りへ
花岡塗はミステリアスです。幕末から明治。花岡半兵という上田藩お抱えの刀の鞘師が始めたものと言われています。技法としては出雲の八雲塗りの流れを汲み、赤、青、黄、緑などの豊富な色合いを研ぎ出しの技法を用いて、一層手の込んだ斬新なものに仕立てられています。しかしその生い立ち、技法の詳細に関しては何の記録もなく、ただ塗られたものがあるだけでした。確認される作品の量、広がりからして花岡半兵一代のものだったのだろうと思われます。あの斬新で類まれな表現は一体どこから来たものなのか。今となってはそれを教えてくれる人は居りません。
再興と小林里一郎氏
そんな花岡塗りに魅せられ、復活に力を尽くした一人の塗物師が居りました。小林里一郎。13歳から塗り物の奉公に出て厳しい修行を乗り越えた塗物師です。独立した昭和の初め、上田には13軒程の塗物屋があったそうで、それぞれに日用品の椀、飯櫃、お膳、文箱、下駄、傘や、机、箪笥、火鉢などの家具調度品から、ふすま、柱などの建材、仏壇まで、あらゆるものを塗って商売をしておりました。「渡り」の漆塗り職人もいて全国を回っていたそうです。渡りながら食べていけるほどに仕事量があったのですね。その後、石油化学塗料の発達、プラスチック製品の普及で、昭和の中頃から次第に衰退して行くのです。ともあれそんな時代の流れの中で、小林里一郎氏は花岡塗りに出会い魅了され、消え行く美しさを何とか復活させようと花岡塗りの再興に挑んだのでした。
花岡塗りの復活は楽なものではありませんでした。その技法は、高度な技術に裏打ちされた「塗り」と「研ぎ出し」によるものでした。いずれも大変に時間をかけるものです。「塗り」では花岡塗りを施す部分と地がすりあがった時にひとつの面になるように塗って行きます。たくさんの色や金泊をひとつひとつ塗っては乾かし、乾かしては塗る、を繰り返します。その後、丁寧に正確に「研ぎ出し」発色させます。「うるみ」と呼ばれる特に輝く部分が現れますが、これは金箔を貼って研いだもので花岡塗りでは最高の技術となるものです。こうして花岡塗りは見事蘇りました。
花岡塗りを伝えること
今回の企画に際しては里一郎氏のご子息、小林泰夫さんにお話を伺い、作品を見せて頂きました。父親とともに花岡塗りの復興に携り、花岡塗りを受け継がれた方です。「気が向いたらやるだろうけれど、今は…」と笑っていらっしゃいました。多くの手間をかけなければ出来ない仕事であり、「気が向く」とは精魂を込めることなのだろうと拝察いたしました。「今はこれしかないから」と言いながら見せて頂いた作品の数々は、いずれも素晴らしいもので、上田が誇る工芸品であると強く感じた次第です。このように素晴らしい技巧も、伝承していくことは大変難しいものです。
終わりに、泰夫さんのお孫さんが中学時代に書かれた作文の一部を紹介致します。
花岡塗りを知っている人はどれくらいいるでしょうか。輪島塗や会津塗りみたいに、それほど有名ではありませんが、花岡塗りにも長い歴史が有り上田市の立派な伝統工芸品です。この花岡塗りを今でも受け継いでいる人は世界でたった一人しかいません。その貴重な人物こそが私の祖父です。(中略)私は小さい頃から祖父の仕事をしばしば見てきました。祖父の指はゴツゴツしていて黒い漆がこびりついてとれません。今こう考えると祖父はすごい人なんだと思います。私の自慢です。花岡塗りは素晴らしいものなのに細々と生きている気がします。伝統工芸は今の時代、本当に貴重なものになりつつあります。長い歴史の中で先人たちが技術に知恵を加えてここまで素晴らしいものにしたのに絶えさせてはいけないと思います。これから先ずーと伝えていかなけ花岡塗りを知っている人はどれくらいいるでしょうか。輪島塗や会津塗りみたいに、それほど有名ではありませんが、花岡塗りにも長い歴史が有り上田市の立派な伝統工芸品です。この花岡塗りを今でも受け継いでいる人は世界でたった一人しかいません。その貴重な人物こそが私の祖父です。(中略)私は小さい頃から祖父の仕事をしばしば見てきました。祖父の指はゴツゴツしていて黒い漆がこびりついてとれません。今こう考えると祖父はすごい人なんだと思います。私の自慢です。花岡塗りは素晴らしいものなのに細々と生きている気がします。伝統工芸は今の時代、本当に貴重なものになりつつあります。長い歴史の中で先人たちが技術に知恵を加えてここまで素晴らしいものにしたのに絶えさせてはいけないと思います。これから先ずーと伝えていかなければなりません。先人たちから私たちへの贈り物だから。有名な工芸品もたくさんあって、もちろん素晴らしいものです。しかし、身近で生きている伝統工芸をもっともっと知ってもらいたいと思います。両方とも同じくらいの価値があるはずです。なぜならば手作りには職人の気持ちがいっぱい詰まっているからです。
平成11年
上田第二中学校三年
倉島 彩
【参考資料】
花岡塗研究会編「花岡塗りと小林里一郎」
~八十二銀行誕生82周年にあたって~
19+63=82
BANKSTORY
▲長野県は古くから金融機関が発達していたことで知られ、ピークとなる明治34年には県内に115行の銀行がありました。これは全国で兵庫、静岡、東京に次ぐ銀行の多さでした。長野県でこれほど多くの金融機関が存在したのは、蚕糸業の発展と深い関わりがあったからです。
▲明治維新以降、日本は生糸の輸出で得た外貨で金属や機械器具、食糧を大量に輸入して国力を高めていきましたが、長野県は国内生産量の3割を占める蚕糸王国でした。
▲明治10年10月に設立された第十九(国立)銀行もまた、製糸業に対する金融を担うことを目的としていたと考えられています。本拠地は生糸集散の地であった上田に置かれました。
▲第十九銀行の特徴は、株主数の約8割が平民だったことです。出資を希望する華士族も多数存在しましたが、株式の募集に対してすぐに予定資本額を超過したため、次回増資まで待ってもらうよう説得するのに苦労したとのエピソードが残されています。
▲蚕糸業の衰退とともに全国で銀行の整理、統合が進んでいきます。昭和2年には金融恐慌が全国に波及し金融市場における一大事件となります。
▲当初長野県下ではほとんど動揺がみられませんでしたが、昭和5年11月、信濃銀行(本店上田市)が支払不能に陥り、休業となります。これを契機に県下一円にわたり金融恐慌が拡がり、県下のほとんどの銀行が取付け(信用を失った銀行に預金者が押しかけて預金を引き出すこと)にあい、休業銀行が続出しました。
▲このような状況のもと、県下の信用不安を払拭し地域経済の安定を図るため、昭和6年8月1日に第十九銀行と第六十三銀行が合併し、八十二銀行が誕生しました。八十二銀行の歴史は、まさに、ここ上田、松尾町の地からスタートしたと言えます。
文:八十二銀行上田支店寄稿 写真:八十二銀行上田支店提供
編集後記
発行日:2014年3月31日
幕末から近代の上田について、松平忠優、花岡塗、そして上田城の3つの視点からご紹介したしました。この時代には意外と題材が多く、埋もれさせておくには惜しいと感じます。これからも真田坂をよろしくお願いします。
● ご意見、ご感想をお寄せ下さい。FAX 0268-21-1100
● 真田坂web:http://sanadazaka.jp
● 発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
● 理事長:寺島秀則
● 「真田坂」担当理事:飯島新一郎
● スタッフ:佐藤隆平/志摩充彦/平林敏夫/増田芳希/飯島新一郎/町田和幸