信州上田 松尾町商店街

松尾町から上田を発信する 松尾町から上田を発信する

源義仲(みなもとよしなか)と上田

文 ○ 飯島新一郎

源義仲の銅像

公家社会から武家社会へと移り変わる平安末期の戦乱を駆け抜けた朝日将軍、源義仲。そのあまりにドラマチックな生涯は、今も昔も人々の心をとらえて離さない。しかし、木曽義仲の通称のとおり木曽の英雄であることを知っていても、私たち上田人とも身近な存在であることは、あまり知られていない。今回は、義仲と上田が切り離せない関係であることにスポットを当て、同時に上田の魅力も探ります。

源義仲とは?

源義仲は、久寿(きゅうじゅ)元年(1154年)に源義賢(よしたか)の次男として生まれます。後に鎌倉幕府を開く源頼朝とは従兄弟にあたります。義仲2歳の時、頼朝の兄の義平によって父義賢が討たれるという、凄惨な源氏の同志討ち事件に巻き込まれてしまいます。物心もつかない幼少の義仲は、斎藤実盛(さねもり)の手によって木曽谷へと落ち延び、そこで青年へと育ちました。

再び義仲が歴史の表舞台へと出るのは、治承(ちしょう)4年(1180年)26歳の時です。以仁王(※1もちひとおう)の令旨に従い平家を倒すべく行動を起こした義仲は、上田の依田館(よだやかた)に居を移して地盤固めをして、養和(ようわ)元年(1181年)白鳥河原(東御市)に兵を集め、平家方の越後守城長茂(じょうながもち)を散々に打ち破ります(横田河原の戦い)。ここから義仲の快進撃が始まります。

越後を手中に収め、北陸方面の有力豪族を次々と味方にする義仲を警戒した平家一門は、ついに直接対決を挑み、寿永(じゅえい)2年(1183年)5月、平家軍7万と義仲軍3万が現在の富山・石川両県境で衝突します。これが、火牛の計の伝説で有名な倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いです。義仲軍の圧勝に終わったこの戦いで、平家軍の大半は峠の急崖から次々と沢底へ転落し壊滅したと言われています。

勢いに乗った義仲は、その年の7月に華々しく上洛を果たしました。しかし、朝日将軍の名が暗示するように、ここから義仲は落日の時を迎えます。後白河法皇や公家の不興を買い、都の治安回復にも失敗した義仲に味方する者は日に日に減って行き、寿永3年(1184年)1月、粟津(あわづ)の戦いに於いて同じ源氏の頼朝の軍によって、義仲は討ちとられます。享年31、上洛して半年という波乱の人生でした。

横田河原古戦場
白鳥神社(東御市)
依田館跡(上田市御嶽堂)

義仲の依田館

義仲にとって、兵を集める拠点となった依田館(現在の上田市御嶽堂(みたけどう)地区)と上田地域はどのような意味があるのでしょうか? 当時の勢力範囲を見ると、甲斐と南信地方は甲斐源氏(※2)、関東一円は頼朝の勢力範囲となっています。

義仲の父の義賢は甥の義よしひら平に、義仲自身も従兄弟の頼朝に討たれているように、源氏と言っても決して味方とは言えない時代でした。両勢力の緩衝地帯だった西上州と東北信を勢力圏に入れる中間点として、上田は非常に良い場所であったといえます。上洛を目指すのに好都合、という意味もありました。東海道は頼朝に、東山道は甲斐源氏に押さえられている義仲にとって、上洛するには北陸道しかありません。上田地域は北陸道につながる交通の要所でした。

さらに、東信地域は古来より望月や新みはり張、塩しおがわ河、塩しおばら原といった、信濃屈指の軍用馬の名産地です。この良質な馬が、義仲軍上洛の機動力となります。

依田館は、有力豪族の依田氏が協力して義仲のために築いたものでしょう。頼朝勢力でも甲斐源氏勢力でもない、平家政権へ不満を持つ第三勢力の豪族たちにとり、旗頭は源氏の御曹司の義仲です。また、地方豪族たちにとり悲願であろう、上洛し官位をもらい故郷に錦を飾るという想いの兵が、続々と上田に結集し、義仲の天下取りの歯車を動かして行ったのは想像に難くありません。

今となっては、依田館の場所すら推定でしか分からない「兵つわものどもが夢のあと」です。しかし、拠点を移してからたった2年で北陸進撃への戦力を結集した驚くべき速度を考えると、「上田の地無くして義仲は無い」のです。

手塚光盛(手塚太郎)

源義仲が上田地域を拠点とした源義仲の有力家臣には、長ながせしげつな瀬重綱や円まるこ子(丸子)小中太など上田の豪族が数多く名を連ねています。その中でも最も有名で鍵となる人物が、手てづかたろうみつもり塚太郎光盛です。平家物語によると

『倶利伽羅峠の戦いで敗走する平家軍に義仲軍が追撃を加え、篠原の合戦となった。ここでも平家軍が敗走する中、たった一人で戦場に残っている立派な身なりの平家の武者がいた。感心した手塚光盛が声をかけると、その武者は名乗らずに戦いを挑んできた。奮戦の後、光盛は武者を討ち取る。

光盛がこの首を持ち帰り、義仲の前にて首実検の時、義仲が「これは斎藤実盛ではないか?」と言う。父が討たれた時、幼い義仲を木曽へと逃がしてくれた命の恩人が斎藤実盛であった。

しかし、実盛ならばもはや老齢。その首は白髪ではなく黒髪なのがおかしい、と訝いぶかしみ髪を洗ったところ髪が白くなった。老人と悟られたくないため染めていたのだと分った。』

とあり、義仲上洛における悲劇として有名な場面です。能の演目としても古くから取り上げられてきました。

倶利伽羅峠の切り通し
平氏の兵を飲み込んだ倶利伽羅峠
手塚氏居館跡
塩野神社の流鏑馬(やぶさめ)走路
安楽寺の国宝八角三重塔
大宝寺国宝三重塔
(見返りの塔)
1180年頃の勢力図

手塚光盛の居館があったとされる場所が、上田市塩田地区の手塚の大城(おおしろ)とよばれる所です。居館跡、光盛の供養塔、光盛の菩提を弔ったと思われる寺跡、など各所に光盛ゆかりの地があります。室町時代に成立した御伽草子(おとぎぞうし)の一つである唐糸草子(からいとぞうし)で全国的に有名な、光盛の娘の唐糸と孫の万寿(まんじゅ)をまつった、唐糸観音もあります。最近の研究でも、手塚氏が手塚を本拠としていたことで間違いない、と分かってきています。

さて義仲の恩人の実盛を討ちとってしまった手塚光盛のその後ですが、最後まで義仲の忠実な家臣としてつき従います。平家物語によると、義仲の最期である粟津の戦いで討ち死にしたと記されています。
義仲が居た依田館から緩やかな峠一つ越えたところが手塚です。依田氏と手塚氏の関係、それに地理的に近いこともあって、光盛と義仲の固い信頼関係が築かれたのかもしれません。

時代は下って、鎌倉時代。幕府の逆賊義仲に味方した手塚氏たちは厳しい処分を受け、塩田一帯を始めとする多くの上田地域が鎌倉幕府執権の北条氏一族の支配を受けることとなります。
そして安楽寺国宝八角三重塔、大法寺国宝三重塔に代表される数々の美麗な建築が作られ、信州の鎌倉として今に伝えられています。もしも源義仲が居なかったら? 手塚光盛が義仲と手を組まなかったら?
信州の鎌倉も無い訳で、そうと考えると「義仲無くして今の上田も無い」と言えます。

志半ばで倒れた源義仲と手塚光盛ですが、その足跡は意外な展開で現在に繋がっているのも歴史の面白さです。朝日のように輝いた彼らの生き方は、諸行無常の世界をも私たちに教えてくれます。

※1 以仁王とは、治承4年に以仁王の乱を起こして平家打倒を目指した後白河法皇の第三皇子。乱は失敗に終わりますが、その令旨は日本全国を駆け巡り、源氏の一斉蜂起につながります。
※2 現在の山梨県を基盤とする源氏の勢力。後の武田信玄で有名な、武田氏がその代表格。

協力=上田市文化財保護審議会
櫻井松夫先生

木曽義仲こぼれ話
●斎藤実盛

義仲の命の恩人の斎藤実盛は、武蔵国長井(埼玉県熊谷市)の人です。最初、頼朝(よしとも)の父の義朝に仕えていました。その後、義仲の父の義賢が上野国(こうずけのくに)(群馬県)に勢力を伸ばしてきたので、実盛をはじめとする武蔵衆は地理的に近い義賢の家臣へと次々に鞍替えしました。これに義朝側が危機感を持ったことが、義賢殺害の引き金となります。

主君を殺された実盛は幼少の義仲を密かに匿いつつ、義朝の家臣に戻って保元の乱・平治の乱に活躍しますが、今度は義朝が討たれて再び主君を失ってしまいます。ついに実盛は源氏を見切り、平家に従います。以降、平家一門に重用された実盛は、各地で平家の恩に報いるべく奮戦します。義朝の子頼朝が挙兵しても、義賢の子義仲が挙兵しても、実盛の平家への忠誠が揺るぐことはありませんでした。
頼朝の富士川の戦いで、水鳥の飛び立つ音に驚いて平家の大軍が戦わずに逃亡した、とのエピソードは有名です。これは、源氏をよく知る実盛が東国武士の勇猛さを語りすぎて、平家軍が必要以上に怯えてしまったのが原因だ、とも言われています。

●唐糸草子

昔々。源頼朝の元に、唐糸という女房が居ました。唐糸は源義仲の家臣の手塚太郎光盛の娘で、父の敵となった頼朝の命を密かに狙っていました。しかし、唐糸の計画は失敗し牢屋に幽閉されてしまいます。
一方、手塚の里に居た唐糸の娘の万寿は、母が囚われの身になったと知り、身分を隠して鎌倉に行き頼朝へと仕えます。ある時、鶴岡八幡宮へと今様踊りの奉納がされることになり、その舞姫の一人に万寿が選ばれました。美しい万寿が踊る今様に感じ入った頼朝は「何でも褒美をとらせる」と言いました。そこですかさず身分を明かし、涙ながらに「自分が母の代わりに牢に入りますので、なにとぞ母を助けてください」と訴えました。
頼朝は心を打たれて唐糸と万寿を許し、母娘は一緒に手塚の里へと帰ることができたのです。

巴御前・山吹御前の五輪塔
巴御前のお歯黒の池
●巴御前お歯黒の池

上田市丸子御嶽堂地区に巴御前(ともえごぜん)にまつわる伝説のある池があります。清水がこんこんと湧き出るこの池の水鏡で、お歯黒などの化粧をしたとの言い伝えです。巴御前は、義仲に最後までつき従った女武将として有名です。大変な美人の上に男勝りの強さを誇る武者だったとのことで、義仲との悲恋話とともに様々な形で語り継がれています。

●巴御前・山吹御前の五輪塔

上田市塩田地区に巴御前・山吹御前(やまぶきごぜん)を供養したと伝わる五輪塔があります。山吹御前は信濃から京へと義仲を慕ってつき従った女性で、出自などはっきりしたことは分かっていません。義仲が京から落ち延びる時に、病に伏せっていた山吹はそのまま京に残ったとされています。

皿蕎麦出自考~蕎麦好きだった上田の御殿様~

文 ○増田芳希

仙石忠政画像

「上田でお勧めの食べ物は」と尋ねられたらどう答えますか。「ウ~ン…。やっぱり蕎麦かナァ」と答えてしまうかも知れません。微妙な言い回しですが、「はい。蕎麦です。」と言えないのは、「戸隠そば」のように「上田そば」といったブランド名をもたず「信州そば」の中に埋もれてしまっているからでしょう。でも、上田の人々は蕎麦が大好き。あたり前の様に蕎麦を食べ、ときには熱く蕎麦を語ります。

全国的にみると蕎麦の文化圏は東日本と言われますが、蕎麦は奈良時代以前に日本に伝わり、養老7年(723年)には蕎麦の栽培を奨励する太政官符も発行されており、古くから日本の食材として欠かせないものでした。それがいつの間にか「蕎麦」は東、「うどん」は西というイメージが定着しています。
そんな中でも西の方で「蕎麦」が名物となっている地域があります。

塩田の館・北条庵の「皿そば」
清里の蕎麦畑人形:小林いと子作

兵庫県豊とよおかしいずしちょう岡市出石町。平成17年に出石町を含む5町が合併し豊岡市として現在に至っています。兵庫県といっても日本海側に位置しています。そこに『出石皿そば』があります。
出石焼きの小皿に盛り付けられ、5皿が基本ですが、立てた箸の高さまで食べて一人前と認められるとの話もあるほどに、蕎麦好きな土地柄のようです。人口1万1千人程の出石町に蕎麦屋さんが40数店あり、それぞれにこだわった蕎麦づくりで、「出石といえば皿そば」と言われるほどのブランドとなっています。人口16万人の上田が47軒であることに比べると、密度の濃さに驚きます。でも、一番の驚きは「出石皿そば」のルーツが上田だったということです。
江戸時代、初代上田藩主は真田信之ですが、元和8年(1622年)松代に転封となり代わって小諸から仙石忠政が移り藩主となりました。

84年経た宝永3年、仙石政明の代に但馬の国出石に転封となり、入れ替わりに出石から松平氏が上田藩主として移封され幕末まで続きます。この仙石氏の転封の際、上田の蕎麦職人を伴いその技法が出石の地に伝わり今日に至るのです。
もう少し仙石氏について触れさせて頂くと、初代小諸藩主、仙石秀久は天文二十年(1551年)美濃国加茂郡黒岩の生まれと伝えられています。
家督を継いだ時は美濃斎藤氏に仕えていましたが織田信長に斎藤氏が討たれた後は織田家に仕え、羽柴秀吉の配下に組み込まれ、秀吉の出世とともに大名への道を突き進んだ人でした。
本能寺で信長が討たれた後も秀吉とともに天下統一への戦いに明け暮れました。しかし九州征伐の島津軍との戦いの折に、突出し過ぎた秀久軍の進撃が大敗を招いたばかりか、敗走する軍を指揮することもなく小倉城に逃げ帰ったことで秀吉の怒りをかい、所領没収のうえ高野山追放となります。
その後小田原征伐が始まり、家康の進言もあって参軍が許され、鈴を陣羽織一面に付け「鈴鳴り武者」の異名を取る出で立ちで十文字の槍を振るい、獅子奮迅の働きで軍功を立てます。これにより秀吉の許しを得、秀吉の使っていた金の団扇を拝領しました。
この「金の団扇」は出石町に所蔵されています。秀吉が逝去した後は徳川家に従い徳川秀忠の上田城攻めにも従軍しました。真田昌幸の智略と勇猛な戦い振りにより、秀忠軍は身動きが取れず関が原の戦いに遅れを取った事は上田人ならば誰でも知っていることです。
激怒する家康に対し、秀久は秀忠の許しを嘆願し秀忠の信頼を得、小諸の所領安堵となります。小諸の治めを整え慶長19年(1614年)享年63歳で秀久はこの世を去り3男、仙石忠政が家督を継ぎます。忠政は秀忠の上田城攻めに父と共に参戦しており、大坂の冬、夏の両陣でも戦い、その戦功と尽忠により元和8年、6万石に加増され上田藩主となります。
心ならずも上田を去ることとなった真田信之に代わり上田藩政を進め、新田開発、産業の振興、兵農分離、領内支配体制の整備、上田城の大改修などに功績を残しました。その後三代に渡るの治世の後、但馬の国へお国代えとなります。仙石氏は真田氏と共に江戸時代の上田の基礎を築きました。

●出石町のある豊岡市は上田市の姉妹都市であると共に、災害時応援協定を取り交わしています。
●里帰りした「皿そば」は上田市の観光施設「塩田の館・北条庵」でお召し上がり頂けます。

上田の蕎麦が山を越え野を越えた

そんな仙石の殿様が、上田から遠く離れた兵庫県の日本海側、もう少しで出雲の国に行ってしまうような所に信州上田の蕎麦をもって行ったのです。山里の恵みと香りを携えて。そして出石の地に根を生やし「出石皿そば」として今も人々に愛されています。「やせた土地で育つ蕎麦は貴重な食料で、蕎麦づくりが盛んなのは貧しさの現われなのだよ」などと軽口をたたく人もいますが、その風味と喉越しの妙は、間違いなく日本を代表する食のひとつです。信州上田で培われた蕎麦が、遠い但馬の地で息づいていた。上田人にとって嬉しく、誇らしい思いです。
また、出石の方達の地域を守り育てている姿に、心から敬意を表します。これからは私達も、上田を語る食べ物は「もちろん蕎麦ですよ」と言うことにしたいと思います。

おわりに、「出石皿そば協同組合」様から寄せられたメッセージを添えさせて頂きます。

仙石氏と供に信州上田から伝わった蕎麦職人の技法が、在来のそば打ちの技術に加えられ『出石そば』が誕生しました。幕末から明治初期にかけて小皿に盛る様式が確立されましたが、これは屋台で供される際に持ち運びが便利な小皿に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされています。明治から大正時代には、町内に十数軒の蕎麦屋があったといわれています。その後、昭和30年代までに数軒に減ってしまいますが、高度経済成長期、観光レジャーブームとともに「城下町出石」も脚光を浴びはじめ、年間100万人の観光客が訪れるまでになりました。白磁の出石焼の小皿に盛られた名物「皿そば」は話題を呼び、現在では四十数軒の蕎麦屋が軒を連ねています。平成23年には『出石皿そば』という呼称が地域団体登録商標に認可されました。今後は、品質の向上と地産地消事業の推進を図り、伝統を守りながら地域ブランドを目指していきます。
出石皿そばのルーツである上田市に対してのリスペクトは勿論のこと、今後は交流事業など、より一層の相互関係の構築をお願いいたします。

出石皿そば

出石皿そば協同組合 広報担当 中嶋勝己様より

編集後記
上田を拠点として京に上った源義仲、上田をルーツとする皿そば。上田って実は凄い所なのだと、その一端を感じていただけましたでしょうか?ご愛読いただいている皆様、取材協力いただきました皆様に御礼申し上げます。

発行日:2013年3月1日
●ご意見、ご感想をお寄せ下さい。FAX 0268-21-1100
● 真田坂web:http://sanadazaka.jp
● 発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
● 理事長:寺島秀則
●「真田坂」担当理事:飯島新一郎
● スタッフ:佐藤隆平/志摩充彦/平林敏夫/増田芳希/飯島新一郎/町田和幸