真田坂 増刊号
松尾町の神輿
文 ○増田芳希松尾町の神輿
◎取材協力/土屋豊子様・平林昇様・増田節子様・山極勝夫様・吉川浩代様
表紙の白黒写真をご覧ください。昭和十年に松尾町が神輿を購入したときの記念写真です。それから八二年を経た今年、大規模な修復を行い、再び美しい姿をとり戻しました。そこで、町内の八十歳~九二歳の先輩方にうかがった思い出を交えながら松尾町の神輿についてお話したいと思います。
昭和十年といえば、昭和の恐慌からの復興も儘ならぬ情勢の中で日中戦争に向かう頃でした。「それぞれの商店も決して楽ではなかった時期にお金を出し合って、今日の一千万円を超える金で神輿を購入し、松尾町の神輿を上げた先輩の方々の心意気に頭が下がります(Y.Kさん八六歳)」。
そして日本は重苦しい戦争の時代を迎えます。「戦争中、近所のお宅の蔵の中の奥の方にお神輿があったことを覚えています。軍からの供出命令から逃れるように隠しておいたのでしょうね。おかげで無事に残りました(T.Tさん八十歳)」。
戦後の復興と共に、祇園際は町の人々の結束を強めながら上田の夏祭りとして賑わいを増して行きます。「松尾町の御神輿は、宮神輿で、その立派な造りは子供心にも自慢でした。大人達も塗りの屋根に水をかけられて傷まないように、水をかける店先は避けて練ったそうです。そのくせ事務所に戻ると片付けもそこそこに、飲みに飛び出して行ってしまった(Y.Hさん八十歳)」。
松尾町の祇園祭りで際立っていたのが、女の子の行列でした。昼夜の計三回、神輿と一緒に練り歩く姿は、祭りの情景を一層美しく賑やかなものにしていました。「頭は朱の茅で決めた菅笠、身は上半身を当時流行のボイルという布地で、絽の黒の衿をかけた下着と、赤・黄・紺の蝶柄の着物を重ねて着て、その蝶の片袖を脱ぐと、小鈴を縫い付けた下着の麻の葉柄の袖が出る。下は紺色の『たっつけ』で纏めていた。足元は白足袋に草履姿で締め上げて、右手に『錫杖』、左手には松尾町の名入れの提灯を持った『手古舞姿』の行列で、他町の羨望の的であった、との記録があります(M.Sさん九二歳)」。
神輿新調の時期は各家で衣装を揃えていましたが、昭和二八年に町で買い揃え、『たっつけ』も浅黄色に変わりました。その衣装は今も松尾町の倉庫の茶箱の中に眠っています。
昭和二九年の写真には小中学生の四十名ほどの女の子達が映っています。こんなに可愛い子供達が沢山住んでいました。男の子達も大勢いて、戦後のベビーブーム、団塊の世代の人達を加え町中が子供達の声で溢れていました。その後、年を経るとともに大人も子供も減って行きます。
昭和四五年以来、松尾町は末広町と合同で祇園を祝っています。二町が一緒になった背景には子供が少なくなったという現実もありますが、末広町には祇園に対するひとつの思いがあったのだそうです。その昔、末広町にも神輿があり祇園神事を行っていいたそうです。あるとき、祭りの勢いで喧嘩が起こり、その後、神輿を出さなくなった。六十年以上も前のこと。でも、楽しかった祇園祭を、神輿を担ぐ興奮を子供たちに味あわせてあげたい。その思いがひとつになり、現在もふたつの町がひとつになって祭りを祝っています。平成二九年、松尾町の小学生は三人。末広町は0人です。でも、祇園になると子供たちが集まります。それぞれの町で育った子供たちが子供を連れて帰ってきます。楽しかった祭りを、また子供と一緒に楽しもうと。
今年八二歳を迎える神輿は、永い年月の間に細かな装飾は傷んだり、剥げたり。縛り上げるときの軋む音もそのままに時が過ぎました。「自治会の会計や自治会長を務めさせて頂いた頃にも幾度か買い換えの話が出ましたが、諸先輩方が心を合せて購入し、大切に守って来た神輿を買い替えることはできませんでした。(H.Nさん九十歳)」
その思いは祭りの運営を引き継いでいる今の世代も同様で、多額の費用が掛っても、昭和十年からの神輿を守って行きたいとの意見が大勢を占めました。町を愛する気持ちは神輿と共に受け継がれ、これからも続いていくことでしょう。それはまた、松尾町、末広町だけではなく、どの町にも同じ様に在るものと思います。
上田祇園祭、宵祭り
信州上田祇園祭実行委員長
文 ○堀内義広
◎写真提供/ 竹田富夫様
昭和四三年、西からの涼風が吹き始めた夏の夕暮れ。遠くで祇園囃子が響いている。子供の持つ小振りの灯篭に、次々と明かりが灯り始める。発輿前、周囲の大人たちも ざわざわ と落ち着かない。その光景を下から見上げながら、灯篭を持つ小さな手に力が入る。弓張提灯を先頭に、拍子木・灯篭・子供神輿・大人神輿の順番で整列した。
「始まる…」動悸で息苦しいほどの何とも言えない高揚感。そっと後ろを振り返ると、夕闇の中大勢の大人に担ぎ上げられた神輿の灯りが黄金色の鳳凰を仄かに照らし、幻想的な輝きを放っていた…。
私が地元「本町」の祇園祭に初参加した時の情景です。
現在開催されている祇園祭の起源は、西暦八六九年(貞観十一年)に夏の京都で疫病が蔓延し、人々が怨霊の怒りや呪いであると恐れ、その怒りや呪いを 「牛頭天王(すさのうのみこと)」の力を借りて祓い清めようとしたのが始まりであるとされています。当時は梅雨時期の食品や水さえも管理が大変であったため、都に習って健康意識を高めるために、疫病退散や厄災消除の夏祭りとして全国に広まっていったと考えられます。
一方、信州上田祇園祭の始まりは諸説あります。推測の域は脱しませんが、西暦八七〇年(貞願十二年)滋野朝臣善根が信濃守に任ぜられており、京都で執り行われている祇園祭を持ち込んだのではないかと思われます。この時代はおそらく地域の町や村で独自に開催されていたと考えます。
時は下って一五八五年(天正十三年)真田昌幸が上田城を築いた時に各地域で執り行われていた祇園祭が、現在の様な「御城祭」として変化していったのではないでしょうか。上田市誌では、以前より執り行われていた祇園祭が、一六八四年(貞享元年)に御本丸道筋にて行われた記述があります。
このように、地域の疫病退散や厄災消除の為に執り行われていた祇園祭は、上田藩の長久安泰をも祈願する祭りへと変化し、現在は、原町の「お山の天王」や海野町の「お舟の天王」等の山車も加わって、四十近い自治会がそれぞれ神輿を繰出し、大人や子供の宮神輿・樽神輿・花車等をあわせ百基超、参加者も五千人を超える上田の夏の口火を切る祭りとなっています。
世の中の移り変わりが激しい昨今ですが、何百年も続く上田祇園祭は「変わらないもの」・「変わってはいけないもの」として、また、私達が子供の頃に感じたわくわく・どきどきする気持ちを後世に繋げて行けたら、それだけで素晴らしいことだと思います。
神輿修復の報告と御礼
昭和10年に建造された松尾町宮神輿は、戦中戦後の混乱にも耐え、現在までその美しい姿を守ってきました。しかし、歳月の経過とともに装飾の損傷が進行し、神輿本体の老朽化も懸念されるところでした。そこで神輿の新規購入も含めて検討してまいりましたが、戦前建造の神輿が上田にほとんど残されていないことと、宮神輿の造作の端正な美しさを鑑み、これが後世の財産となることを見据えて、神輿の修理復元を行うとの結論に達しました。
そしてここに、屋根・胴体・台座の木地修理と調整、剥離した漆塗装の塗り替え、装飾金具類の叩き直しと純金メッキを施し、松尾町宮神輿が立派に修復されたことをご報告いたします。
末筆ではございますが、松尾町・末広町の皆様方と上田市のコミュニティ助成事業様の多大なる御奉賛を賜り、また修復実行委員、ならびに修理をして頂きました日本木工振興様のご尽力に、厚く御礼申し上げます。
平成29年6月吉日
松尾町宮神輿修復実行委員長
中澤龍治郎
真田坂 号外
発行日:2017年7月1日
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● 真田坂web:http://sanadazaka.jp
● 発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
● 理事長:志摩充彦
● 「真田坂」担当理事:飯島新一郎
● スタッフ:佐藤隆平/志摩充彦/平林敏夫/増田芳希/飯島新一郎/町田和幸/寺島遼
● 表紙写真:寺島遼