真田坂 第23号
北國街道
~江戸の新幹線~
文責 ○飯島新一郎
北國街道は、中山道の追分宿(現 長野県北佐久郡軽井沢町追分)で分岐し、高田宿(現 新潟県上越市本町)で北陸道に合流する全長約140㎞を言います。江戸時代になって日本の中心が京都から江戸へと移ったのに伴い、北陸と江戸を結ぶ脇街道の整備が必要となり幕府によって設けられました。
そして加賀百万石の藩主の前田氏を初めとして、北陸の諸大名の参勤交代に盛んに使われていました。また、佐渡の金や越後の蝋を江戸へと輸送する道としても使われ、北國街道は幕府にとって非常に重要な役割を持っていたのです。
一方で江戸時代の民衆にとって、北國街道といえば善光寺への参拝路でした。特に関東方面の人は専ら「善光寺道」と称していたほどで、信仰の道としていかに大切だったかを窺い知ることができます。
上田にとって、北國街道とはどういう存在だったのでしょうか。江戸時代になるまで日本の中心地は京都・大坂を中心とする近畿地方でしたので、上田から都へと上る道といえば浦野から一の沢(青木)を通って松本へと抜ける保福寺道(ほうふくじみち)(松本街道)でした。保福寺道は律令時代に拓かれた東山道に近いルートを辿る道で、古来より人々の往来が頻繁に行われていました。江戸時代後期の押絵雛は松本の文化が上田に伝えられたものですが、これも保福寺道を通って入って来たものです。当時は上田と松本の人同士で結婚することが多かったなど、両地域の間で結びつきが強かったことの現れでしょう。
しかし江戸時代は江戸との結び付きが次第に強まり、上田を通る幹線道路は江戸へとつながる北國街道が重視されるようになります。上田領では東境の番所があった加澤村(現・東御市加沢)から西境の番所があった下塩尻村(現・上田市下塩尻)まで、田中宿・海野宿・上田宿の3つの宿場があり、多くの人々や物資の往来で街道筋は大変に賑わいました。当時の旅人は公式に認められた宿場以外での宿泊は原則禁止だったのですが、宿場と宿場の間や枝道にも非公認の宿ができて旅人をコッソリと誘っていました。宿場町も手をこまねいていたわけではなく、役人へ告発して取り締まってもらっていました。中之条や小牧の民家で非公認に客を泊めている、との藩への告発文が今に残っています。
また、交通路の整備と安全確保により、諸国を相手に地域産業が発展しました。まず、蚕糸関係の産業では、為登糸(のぼせいと)(生糸)、蚕種(さんしゅ)(蚕の卵)、上田紬・上田縞(絹織物)が挙げられます。この時代、上田縞や上田紬は農家の副業として盛んに織られ、それを集めて取り引きする市が上田の町で開かれていました。これらは江戸、さらには名古屋から京都・大坂へと荷送りされ、安価な絹織物であるのに丈夫で長持ちすると大人気となっていたのです。
次に、上田紙(うえだがみ)(和紙)も上田の川西地域では大切な産物でした。その地で漉かれた上田紙は北國街道を通って江戸へと運ばれ、「鼻をかむ紙は上田か浅草か」と川柳に詠まれるほどでした。質はそれ程良いとは言えないものの安価で気軽に使える上田紙は、江戸庶民の間で利用され、衛生環境向上に大きな役割を果たしました。
そして、上田領西隣の横尾村(現・ 坂城町南条)を中心に作られていた玄古(げんこ)煙草です。上田の商人によって江戸に運ばれたこの煙草は、その安価さで人気がありました。このように、上田領を中心としたこの地域での産物は、懐具合の寂しい江戸庶民の強い味方でした。
一方、北國街道を通って上田に入ってきていたものも数多くあります。海産物がその代表で、とりわけ生活必需品の塩が重要でした。この時代、製塩は主に赤穂(現・兵庫県赤穂市)で行われており、上田にも北前船などで運ばれた赤穂の塩が、高田から北國街道経由で入ってきていました。
最初は主に軍事や政治の都合によって設けられた北國街道でしたが、やがて産業、流通、宗教、文化へと裾野が広がり、その利益を享受したのは三都(江戸・大坂・京都)だけではありませんでした。上田の商工業に見られるように、北國街道沿いの庶民も広くその恩恵に浴していたのです。
時代は下って明治時代に鉄道による物流革命が起こり、街道筋は急速に寂れ、鉄道駅を中心に人や物が集まっていく時代となります。上田も明治21年の信越線開通を契機に、北國街道筋の多くは町外れへと姿を変えて行きました。
しかし、東海道沿いに東海道線が、甲州街道沿いに中央線があるように、北陸新幹線(しなの鉄道)は北國街道沿いに走って金沢に達します。そして今も変わらず、東京と上田、そして北陸を繋ぐ大動脈としての機能を果たしています。江戸時代のインフラ整備は明治時代以降の近代化の下地となり、現在へと繋がっていると言えるのです。
監修=上田社会教育大学講師 尾崎行也先生
松尾町の坂
~坂道を登りながら、こう考えた~
文責 ○増田芳希
上田駅から中心市街地へと続く坂道。松尾町の坂(真田坂)は明治の初めまで上田城下の武家屋敷とその外に広がる松林でした。姿を変えて行った上田とその時代に、想いをよせてみました。
明治という時代
明治という時代は、近代化への道を一気に進んだ大変な時代でした。時の流れと呼ぶだけでは収まらない、新しい国のかたちへの理想と国家建設のエネルギーにあふれた時代でした。あるとあらゆるものが変わり、街のかたちも変えて行きました。そんな中で松尾町も生まれました。
明治新政府は生まれたばかりで、財政基盤は無きに等しいものでした。幕藩体制を潰し、無一文の状態から日本国全体を一手に面倒をみる事になったのですから大変なことです。新たな税制を作ったとしても、国内の産業がそれなりの力を持たない限り意味を成しません。そこで新政府が掲げた最優先課題の一つが、『殖産興業』でした。国の経済力を高め豊かな国民生活を築き、先進国である欧米に肩を並べる事が出来る国力をつける事が必須でした。その実現の為に官営工場を造り鉄鋼、造船などの重工業や繊維工業を育成し、国立銀行条例を制定して金融による経済の活性を促し、学制(教育法令)を公布し国を支える人的資源を育成すべく教育を推し進めるなどの政策が、驚くべき勢いで実施されて行きました。その勢いを象徴する事業のひとつが、鉄道交通網の建設です。
上田停車場の誕生
1872年(明治5年)新橋‐横浜間で鉄道が開業します。「汽笛一声新橋を♪早わが汽車は離れたり♪…」と鉄道唱歌に唄われ、力強く煙を吹きあげながら走る蒸気機関車の姿は、まさに新しい時代の訪れを告げるものでした。それから全国に鉄道敷設のための建設土木工事が急速に進められます。野山を切り開き、橋をかけ、駅を造る。盛んな公共投資は国内経済を押し上げる力ともなりますが、当時の日本の財政は乏しく、地方行政財源、民間資金に頼らざるを得ない状況でした。
1888年(明治21年)8月15日上田の停車場(上田駅)が開業し、長野〜上田間が開通しました。「汽笛一声」から16年後のこと。翌1889年(明治22年)新橋〜神戸間全通。1891年(明治24年)上野〜青森間全通。1893年(明治26年)には横川〜軽井沢が開通し信越本線が完成します。凄まじい速さと力です。その力が「殖産興業」を牽引していきました。
新しい道づくり
上田停車場が出来る前、停車場周辺は千曲川河川敷につながる荒れ地でした。太郎山の裾野に広がる上田盆地の地形は、主に染谷台地の第一段丘、上田城を取り巻く城下がのる第二段丘といくつかの段丘でつくられています。明治の初め、第一段丘には養蚕のための桑畑が広がり、第二段丘には城下町があり北国街道が通っていました。現在の中央交差点は第二段丘にあり交差点ではなく曲がり角で、道は原町から海野町に曲がり北国街道が横町に抜け、南側には武家屋敷が残りその先は松が生い茂る急な坂が千曲川へと降りていきました。当初、上田停車場を新田のあたりに作ろうとの計画がありました。線路も第一段丘に沿って山沿いを走らせようとの構想でした。ところが、停車場や機関車のための施設、線路、停車場へのアクセス道路により桑畑が潰されてしまうとの理由から、有力な地権者や養蚕農家から猛烈な反対がもちあがりました。
そこで次に選ばれたのが現在の上田駅のある場所でした。工事の難易度、地盤の安定度などからみて線路を走らせるに、山沿いが良いのか川沿いが良いのか様々な議論がありましたが、上田の将来図を描き、最終的に現在の位置に停車場を造ることとなりました。そうなると必然的に市街地からの道が必要となり、その道は時代の最先端の鉄道と市街地を結び、地域経済を革新的に発展させる道となる。この拓かれた道が「松尾坂(真田坂)」でした。
前述のように、中央交差点から南側は住宅(私有地)と松林でした。そこに道を拓くには先ず住人の立ち退きが必要でした。行政は立ち退きを命じ、そこに住む人たちはそれを受け入れました。国も地方も金のない時代。満足な保障もないまま、御上のご意向に逆らうことも出来なかったのでしょう。また、6、000円という巨額の寄付をされた事業家もおられました。当時活況を呈していた蚕種業で富を築いた方でした。公事のまえに涙を呑んで私事を捨てたひと、民から得た富を民へ返そうとしたひと。明治という時代の人々の大きさが感じられます。松林を切り拓き幅八間の道を停車場まで繋げ、掘削された土砂で駅前周辺が整地されていきました。こうして駅を中心にすさまじい勢いで動き始めた中で店ができ、宿屋ができ、住居ができ、町ができ上田は大きく発展することになります。
当時もうひとつの都市計画がありました。上田・松本間を繋ぐ「第二線路」通称、「二線路」の計画です。松本は県内でもうひとつの大きな商圏。松本との交易は上田の産業振興において必須のものでした。そのための道が「第二線路」だったのです。当時の陸運はまだ馬車が主であったこともあり、極力勾配を抑えながら一直線に青木峠へ向かう道が拓かれました。着工は1888年。
上田停車場が出来た年です。松尾町の坂を切り拓いたと同じように、千曲川を越えて三好町から青木まで宅地、田畑、山林を潰して新しい時代のための真っ直ぐな道を造ったのです。着工から2年。鉄道を繋ぐ構想は実現しなかったものの、上田橋の完成とともに県道が開通し、その後国道143号線となります。ついでですが青木峠のトンネルは現存する国道のトンネルとしては最古のものです。
時代の流れの中で大きく変わっていく上田の姿を支えた鉄道駅。そのために造られた道。坂。その坂道に松尾町はあります。街が広がり、様々な街の機能が分散されている現在。昔のような賑わいは薄れて来てはいるものの。上田駅は上田の玄関であり、そこから上っていく坂道は人や物、暮らしを運ぶ道であることに変わりはありません。今日もまた、坂の上を時が流れていきます。
日本一短い県道
なんと上田には日本一の道があった。長野県道162号上田停車場線がそれで、上田停車場(上田駅)から国道141号交差点までの一般県道。総延長は約130mであるが、県道77号長野上田線との重複区間を除くと実延長は起点の駅前ロータリーから上田駅お城口交差点までのほんの7m。日本で最も短い県道である。標識などは設置されていない。地図上では表示されないことがある。ちなみに短い県道の第2位は広島県の県道204号線。(平成27年現在)
【取材協力】 滝澤主税
【参考文献】 滝澤主税著「上田の水害」
上田小県教育会編纂
「上田小県地誌」
福祉創世記
~上田から全国へ 福祉のトップランナー~
文●どらいもん
今回のテーマってどう?
今回のテーマは、「福祉と上田」です。福祉と言われても、救済事業? 奉仕活動? 自立支援? 広い意味では、医療や教育も入るのかもしれないし、普段意識したことがないのでよくわからない。と言う事で、今回は、専門家が沢山いそうな所へと取材に行ってみました。
福祉の専門家が沢山いそうな所へ
さっそく、真田坂にある上田病院さんに伺いました。駅に近くて便利で親切な、地域に愛されている身近な病院です。取材を受けていただけたのは須江さんと中村さんと勝見さんです。病院という切り口から福祉を患者さんに例えて説明して下さいました。
もしあなたが病気になったら、患者さんであるあなたの幸せは何だろうか?を考えます。病院でずっと過ごすよりも家庭で過ごしたいだろうな。もしそうなら、患者さんの自立支援をサポートしていこう。こう考えているのが現代の福祉です。昔は、困った事は市役所か民生委員に相談するしかなかったし、病院としても個人宅へ訪問する往診が非常に多かったです。市町村中を回る移動時間や医師の身体的な負担を考えれば非常に大変でした。そこで訪問看護という制度が作られました。これによって患者さんの家庭療養を看護師がサポートできるようになりました。また、介護に関して訪問看護師だけでは支えきれないので、介護福祉士やホームヘルパーが整備され、介護プランを作る専門スタッフとしてケアマネージャー(介護支援専門員)が調整役として整備されました。これ以外にも、社会福祉全分野を担う社会福祉士や精神障害者の保健及び福祉分野に特化した精神保健福祉士も整備され、患者さんが家庭に帰っても困らないようにしっかりとサポートする体制が作られてきています。噛み砕いて説明すると、行政や自治体、家族だけではなく、薬なら薬局さん、もちろん普段の買い物をする商店街さんといったありとあらゆる地域の機関が協力して地域社会全体で患者さんを支えていこう。こういう体制を作ろうとしているのが現在の福祉の姿です。
さらに、上田病院さんで木曜日に行われている社会保険の被保険者を対象に行っている特定健診についても教えていただき、病気を早期発見して患者さんの負担軽減や医療費の抑制ができるように健康診断を広く呼び掛けていることも教えていただきました。元気で長寿日本一の長野県、そして元気すぎる上田のおじいちゃんおばあちゃんにはちょうど良いシステムだなと感じました。
ホームヘルパーと上田
福祉に少し興味がでたので、もう少し調べてみるうちに上田と福祉の意外な関係に驚かされました。例えば、ホームヘルパーが上田生まれの制度だったことです。
昭和27年(1952年)頃から上田市在住の女性が行っていた、妊産婦や多子家庭などの子供の面倒や一人暮らしの高齢者の話し相手、障害者の介護をするといったボランティア活動が現在のホームヘルパー制度のもとです。その女性の名前がわからないのには訳があります。奉仕の精神から行っていたものなので、匿名にしてほしいという本人の強い希望を汲んだ為です。戦争の爪痕に苦しんでいた時代に、このような事業が起こっても他の市町村では廃止に追い込まれてしまっていました。上田では「お金のことよりも困っている人を放っておけない精神」で辛うじて続けられ、その後、昭和30年に上田市社会福祉協議会が組織化。さらに翌年、長野県が上田をモデルにした家庭養護婦派遣事業(注1)として実施します。長野県と時同じくして大阪でも同様の事業が始まり、徐々に全国的(注2)な広がりを見せていき、ホームヘルパーへと発展していくのです。
民生委員と上田
さて、NHK大河ドラマに「真田丸」が決まりました。上田と大阪は縁が深いと言われますが、ホームヘルパーも上田と大阪から広がって行きました。そして、福祉の世界では民生委員制度でもご縁があったりします。
私たちの生活の一番近くにある社会福祉機関である民生委員さんは、地域住民の生活状況を把握して相談に乗ったり必要があるときに担当行政に協力や報告をしたりと、とにかく大忙しです。この民生委員制度は、大正7年(1918年)に当時の大阪府知事であった林市蔵と、その政治顧問で上田市出身の小河滋次郎(おがわしげじろう)が考案した方面委員制度が発展したものです。
法学者でもあった小河滋次郎の人生は、前半は感化法(現・児童福祉法および少年法)や監獄法(現・刑事収容施設法)の立法に関わり受刑者を刑罰ではなく感化教育(注3)という視点で更生させることを唱えました。そして、後半は最も身近な地域の福祉機関である民生委員制度へと発展した方面委員制度に尽力を注ぎました。
竹馬の友~滋次郎と英吉郎と勝三郎~
小河滋次郎は、医学博士として世界初の人工がん実験に成功する山極勝三郎や第二代上田市長となった勝俣英吉郎らと共に真田坂をのぼった先にある馬場町で幼少期を過ごした竹馬の友です。東京在住中に上田出身者で上田郷友会という会の立ち上げも一緒に行っています。さて、小河滋次郎を調べていくとその人脈のすごさにも驚かされます。キリスト教に基づいた奉仕の考え方として、感化教育の先駆者(注4)であった留岡幸助や有馬四郎助。内村鑑三や新島譲。その他にも、大隈重信、渋沢栄一、岩崎弥之助といった超一流と言われる人物との繋がりがあります。また、この当時の上田では自由大学や農民美術運動といった教育福祉の運動が展開されたり、その後には、ホームヘルパー制度、全国初の公立点字図書館(注5)の設立(昭和30年)といった、より良い社会建設への気概の様なものを感じます。
福祉とビジネスと奉仕
どうだ上田ってすごいだろ(笑)。私は、お客様へのサービスの本質も広い意味での福祉ではないかと思います。「顧客のニーズ」や「需要と供給」と表現されますが、要は必要としている方に必要とされているサービスを提供するという奉仕活動です。上田病院さんのお話ではないですが、私たち商店街もこれからの福祉社会を支える一機関としてどのように関わっていけるのか。どこを目指していけば良いのか。今回はそんなことを感じることができた取材となりました。
注1 家庭養護婦派遣事業
戦争未亡人の雇用対策としての意味合いもあったとされるが、補助要綱によると「多数の母子ならびに身体障害者等が社会的経済的変動を受けて、家庭生活の維持すら至難となり、さらに不時の傷病等によって家事の処理が困難となる場合が多く、親せき知人または近隣の扶養奉仕も自ら限界があり、多くを望めない状況にかんがみ・・・」とされる事業
注2 ホームヘルパーの歴史
昭和27年 | 上田在住の女性 | 妊産婦や多子家庭の子供、一人暮らしの高齢者、障害者の介護 等 |
昭和30年 | 上田市 | 上田市社会福祉協議会が主体となり組織化し実施 |
昭和31年 | 長野県 | 上田をモデルに家庭養護婦派遣事業として県の事業として開始 |
昭和33年 | 大阪府 | 臨時家政婦派遣制度として開始 |
昭和34年 | 大阪府 | 家庭奉仕員派遣制度と改名され実施 |
昭和37年 | 国 | 家庭奉仕員制度設置要綱を制定 |
昭和38年 | 国 | 老人家庭奉仕員(老人福祉法)として細分化 |
昭和42年 | 国 | 身体障害者家庭奉仕派遣事業を創設 |
昭和45年 | 国 | 障害児家庭奉仕員派遣事業を創設 |
平成3年 | 国 | 名称を家庭奉仕員からホームヘルパーに変更 |
注3 感化教育
刑罰による更生ではなく、教育や道徳といった考え方や行動に影響を与えることによって、自然に更生感化させることを目的として行われる教育
注4 感化教育の先駆者
留岡幸助(北海道家庭学校)や有馬四郎助(横浜家庭学園)は、私財を投じて感化教育施設を作った先駆者。日本で私立の児童自立支援施設が二つしかないのもそうした経緯からなる。
注5 上田点字図書館設立
昭和26年に点字図書部設立。昭和30年、蔵書・読者の増加に伴い長野県上田点字図書館として新たに隣接建物で開館。設立には、小河滋次郎の実兄でもある医師の金子直躬が大きくかかわり、勝俣英吉郎が涙を流して市会を説得した全国初の公立点字図書館。
【 取材先 】
医療法人 健静会/上田病院
【 参考文献 】
『生涯学習と文化活動』 上田市誌 近現代編
『長野県上田点字図書館のあゆみ』 -全国最初の公立点字図書館
『上田小県近現代史研究会ブックレット』 №12
『住民と共に歩んだ50年』 社会福祉法人 上田市社会福祉協議会
編集後記
発行日:2015年10月15日
発刊が大変に遅れまして、読者の皆様には大変にご迷惑おかけいたしました。また、取材や編集作業など発刊に向けてご協力いただいた関係者各位に、心より御礼申し上げます。次号も真田坂をよろしくお願いいたします。
●ご意見、ご感想をお寄せ下さい。FAX 0268-21-1100
● 真田坂web:http://sanadazaka.jp
● 発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
● 理事長:寺島秀則
● 「真田坂」担当理事:飯島新一郎
● スタッフ:佐藤隆平/志摩充彦/平林敏夫/増田芳希/飯島新一郎/町田和幸