信州上田 松尾町商店街

松尾町から上田を発信する 松尾町から上田を発信する

上田城は真田昌幸の傑作!

文 ○西澤文登

上田は上田城を中心として造られた典型的な近世の城下町です。最初の設計者は真田昌幸(まさゆき)であり、その後の開発整備は嫡男の真田信之(のぶゆき)が引き継ぎました。
上田城は関ヶ原の戦い以後破却されて(慶長(けいちょう)の破却(はきゃく))、更地同然になってしまったため、上田城と上田城下町に真田時代の史跡は大変少ないといわれます。しかし、後に真田信之に替わって入ってきた仙石忠政(せんごくただまさ)による再建は真田時代の縄張りを踏襲したものといわれ、まちの構成、アウトラインを含めて城の縄張りそのものが真田の史跡といえます。地形を最大限に活かした城の置き方、館の配置、武家町の構成と位置、大手の位置、商人町の移転とその機能、川を利用した職人町の形成、街道を引き込んだ交通路の整備、それを守る村の移転造成、総構えを広く取った外堀の造成、寺社を移転させての防衛線の形成などなど。
昌幸の引いた設計図を基として、状況の変化に対応した信之の実行力と応用力が成した父子共同のみごとな作品であるのです。

縄張りとは
曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう。城の最重要項目と言ってよく、城の良し悪しはこれで決まるとも言える。なお、上田城は千曲川を背にした梯(てい)郭(かく)式縄張りである。
図 ①:上田古図(上田市立博物館所蔵)

真田氏時代の上田城絵図として知られている上田古図(天正12年ごろ))(図①)を見ると、武家屋敷らしきものは「常田御屋敷」があるだけです。上田城本丸を表すと見られる屋形の周囲は水壕と柵で囲まれています。
「すはべ」「西脇新町」「新鎌原」「新房山」「上田」「常田」と記された所には家並みを表すとみられるものが、ほかは田畑を思わせるものが描かれています。印象的なのは沼と表記された池があちこちにあり、川(水路)が縦横に走っていることです。
第一次上田合戦の直前の様子かも知れません。のどかな田園地帯だった所に城を築き、村や町を移転させ、新しくまちを造ろうとしていたことが示された図です。昌幸の頭の中にはこの絵図と同じような図があり、これをどう展開し、将来的にどのようにするかが描かれていたと思われます。

なお余談ですが、この古図の右下に「象山」の朱印があり、佐久間象山が所持していたものだという伝承があります。

地図をかたわらに真田昌幸のまち作りの設計とはどのようなものだったのか、今回は上田城の総構えと館・寺社の配置を中心にして、その特長を追ってみようと思います。

太郎山から望む現在の上田城下町

真田昌幸は信玄学校の優等生

真田昌幸は少年時代に甲斐の名将武田信玄のもとに人質に出されており、その聡明さで信玄のお気に入りの存在でした。難攻不落の築城術はその時に学んだものと思われます。

上田城の総構え

惣構えとも書きますが、城の外郭、または城の内部全体のことを総構えといい、その城下の規模を示すものです。上田城の総構えは矢出沢川(やでさわがわ)と蛭沢川(ひるさわがわ)を外堀とした内側と考えられます。現在公園となっている所だけではなく、かなり広い部分が上田城なのです。

上田城築城において昌幸はまず、河川の流路を変えました。陸上競技場と野球場になっている所は昔百閒掘(ひゃっけんほり)と呼ばれた二の丸の堀跡ですが、築城前は矢出沢川が流れ込んでいたといわれます。その矢出沢川を北に移動させ常磐城の高橋の所まで伸ばし、千曲川に流れ込むように流路を変更しました。また蛭沢川の流路も東にふくらませて矢出沢川に合流させるということも行っています。(図②)
これはすなわち、矢出沢川を北と西の外堀にし、南側の千曲川の急流と崖と併せて城の守りを固めるとともに、上田城の総構えを広くとるための工夫と考えられます。

図 ②:上田城の総構えと寺社配置
図 ③:上田城構之図(上田市立博物館所蔵)

館の配置と陣屋支配

城主やその親族が居住した大きな武家屋敷を、館と呼びます。今上田には先に述べた常田御屋敷(信之時代の城主館、今の上田高校)と現在清明小学校になっている所の、2つが館跡で残っています。江戸時代初期、寛永年間の絵図「上田城構之図」(図③)を見てみましょう。常田御屋敷は「御屋形」と表記され、清明小学校の所は「中屋敷」とされています。また、中屋敷と御屋形は同じく四方が堀で囲まれた構造をしています。

ところで、上田城構之図に非常に興味深いものが描かれています。現在北大手会館のある辺りですが、玄三山(げんざやま)と書かれた所に掘割とおぼしきものが一本あるのです。北は蛭沢川からの支流、西側はその支流からでた水路が百閒掘につながっていますから、そこは三方が水路(堀)で囲まれていることになります。このことから、東信史学会の機関誌「千曲」で尾見智志氏が、上田に第3の館として「玄三屋敷」がここにあった可能性を指摘しています。しかも「げんざ」は真田信之の源三郎につながるのではないかというのです。今は跡形がありませんから、壊されてしまったか、あるいは造る予定が何らかの事情で造らずじまいになってしまったのかも知れません。玄三屋敷があったとすれば、規模はやや違いますが館がほぼ同間隔で三つ存在していたことになります。

玄三屋敷の有無はともかく、館の配置は城の東に偏っており、東側から敵に攻められた時の防御を目的としたものと分かります。

寺社の移転と配置

城下町には防衛上の備えとして、いざという時に武者溜として機能するように外縁部にお寺や神社が置かれることが通例です。上田城下町でも、横町から北へ日輪寺(にちりんじ)、宗吽寺(そううんじ)、願行寺(がんぎょうじ)、伊勢宮社(いせみやしゃ)。鍛治町に入って月窓寺(げっそうじ)、本陽寺(ほんようじ)と並び、房山(ぼうやま)に入って金昌寺(きんしょうじ)があります。さらに新田には大輪寺(だいりんじ)、海禅寺(かいぜんじ)、呈蓮寺(ていれんじ)、八幡社(はちまんしゃ)。常磐城(ときわぎ)に向源寺(こうげんじ)。諏訪部(すわべ)に芳泉寺(ほうせんじ)という具合です。この並び方は明らかに城下町の備えとしての計画的なものです。(図②)

西北南の三方を川に囲まれた上田城において、唯一の攻め口である東側の防御を固めるために、特に、東側の寺社の配置は念入りなものとなっていることが分かります。

その他、昌幸は上田のまち作りも精力的に行いました。具体的には、三の丸の中への武家町の配置、息子の信之と二代に渡って行った北国街道を取り込んでの海野町(うんのまち)と原町という商人町の形成、鍛冶町・紺屋町などの職人町を造成、太郎山の麓や千曲川沿いに散在する郷村を町の入口に移動した城下町の外郭形成、など。

常田御屋敷(藩主邸):現上田高等学校
願行寺四脚門彫刻(桃山時代)
海禅寺本堂

真田昌幸は上田の名付け親

上田市は今や人口十六万人を数える長野県内三番目の都市です。自然発生的に人が多く住むようになったわけではなく、真田昌幸が築いた城と城下町を基としてここまで発展しました。「上田」という地名も昌幸がその城を「上田城」と名付けたことに拠ります。昌幸の上田築城より十年ほど経った文禄四年(一五九五年)、豊臣秀吉朱印状に「上田 さな田安房守居城」と記されているのが確実な史料に見える「上田」の初出となります。何故「上田城」と名付けられたのかは、いろいろ推測はあるのですが正確なことはわかっていません。「上田」という地名が付近に無かったわけではありません。古来から「上田庄」と呼ばれた所がありました。しかしそこは神科台地の長島周辺の所であり城とはかなり離れています。

先に紹介しました松代佐久間家に伝わった天正の上田古図にも、「上田」は登場しています。この上田は何者なのか?はたし城下町に残る武家屋敷て城の命名に関係しているのか?これも謎です。

ちなみに当初上田城は記録上、「伊勢崎城」と呼ばれることが多かったようです。伊勢崎城の名前の由来もまた、正確なところは不明です。真田昌幸が上田に進出してくる直前の本拠は砥石城(といしじょう)でした。その城下町である伊勢山に一時昌幸が居住していたことは、書状などから確実です。伊勢山の先に築いたので「伊勢先城」としたのかも知れません。いずれにせよ、真田昌幸が自分の作品に自分で名前をつけたのは確かなことでしょう。

城下町に残る武家屋敷
城の水源にもなった蛭沢川
真田信之の室、小松姫の墓(芳泉寺)

真田氏は非常に魅力的な一族です。大河ドラマ「真田丸」の登場人物もそれぞれ個性があって面白いです。でも資料を調べたり本を読んだりしていると今でも「これは何故だろう?」と思える所が数多く出てきます。本当に飽きさせない一族です。

上田城を中心として広がった上田城下町の姿を見てみると、南は千曲川が流れ、北は太郎山系が迫り、西には岩鼻(いわばな)の断崖が存在しますからまちを広げていくには東に伸ばすしかありません。しかしそれにしてもこと防御という観点から捉えると対東側にばかり集中している気がいたします。西側に対する防御はあまりにも手薄という印象を受けるのです。

築城当時上田は、西に上杉氏、東に徳川氏の二大勢力に挟まれる形となっていました。上田城は徳川家康の助力があって造られた、ということは寺島隆史氏の研究などにより今や定説になっています。昌幸が家康に「対上杉」のために必要だと説いたに違いありません。現に上杉軍は、上田城の西に位置する虚空蔵山(こくぞうさん)まで迫って来ていたのです。また徳川傘下の武将たちも築城の手伝いをしたということもわかっています。

しかし西の上杉に対抗するための城のはずなのに、西側に対する防御は手薄で、東側にばかり防御施設が集中している構造の上田城。一体昌幸はどのような図面を見せて、東の家康にプレゼンしたのでしょうか。ドラマにも阿茶の局が家康に言うセリフの中に「お前様が造った城に苦しめられているのですね」というのがあったと思いますが、まさにその通りになったわけです。大変興味がわくところです。

真田が上田を統治したのは上田築城開始の天正十一年(一五八三年)から信之の松代移封(元和八年 一六二二年)までの約四十年間です。仙石氏、松平氏統治より格段に短い期間です。しかし今でも「上田といえば真田」なのです。上田市民にこれだけ愛されている真田昌幸は幸せ者といえるのではないでしょうか。

西澤文登様による原文をダウンロードする
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上田と真田傍陽線~今は無き鉄路をたどって真田まで~

上田観光といったら、やっぱり人気№1は上田城。「真田丸」効果でさらに上田城を訪れるお客様は溢れんばかり。翌年は大丈夫なのかと逆に心配さえしてしまいます。この大人気の秘密は上田城を築いた真田一族でしょうし、真田一族のルーツと言えば旧真田町になるわけですが、皆さんは上田城と旧真田町を結ぶ電車が走っていたことをご存知でしょうか?今回は、真田傍陽(そえひ)線を訪ねてみましょう。

文 ドラいもん

始発駅うえだ

真田傍陽線は、1927年に開通し、1972年に廃止された電車です。起点駅は、もちろん上田駅です。人間だけでなく高原野菜やリンゴなどの農産物の輸送にも活躍した真田傍陽線は、もともとは、上田温泉電軌(現・上田交通)によって北東線という名称で開通しました。このため、起点駅の名称は上田駅ではなく北東上田駅という名称でスタートしました。

昔の上田駅

公園前駅

上田駅を出発すると、最初に停まるのは公園前という駅です。開通時は公会堂下という駅名でした。今残っていれば相当に価値のある建物だと思われる上田市公会堂があったからです。また、公園内のけやき並木には当時の面影を残したホーム跡が残っていたり、けやき並木から上田駅に向かって一直線にきれいに駐車場が続いているのは、そこに線路があったからなのです。

公園前駅

北大手駅

公園前をすぎると北大手駅に止まります。ちょうど上田城の北に位置するこのあたりには、真田の時代には、三方が堀で囲まれた「玄三屋敷」という真田信之(源三郎)のお屋敷があったのではないかという説もある場所です(東信史学会の機関誌「千曲」) 。旧北国街道(国道18号)に沿って矢出沢川が流れ、上田城を迂回するように旧丸山邸や芳泉寺がある場所です。

矢出沢川
上田市公会堂(上田市立博物館所蔵)
上田市公会堂(上田市立博物館所蔵)

上田花園駅と北上田駅

北大手駅を通過してちょうど国道18号を渡った先の駅が上田花園駅です。ここは、遊郭地域への入口に作られた駅です。交通量の多い国道を横切るために長野県内では初めて、全国でも5番目となる道路信号と連動した踏切が採用されていました。次は北上田駅です。近くには、真田信之も整備したであろう古き良き町並みが残る北国街道柳町や上田城の鬼門除けのために移転建立された海禅寺、寒松院が眠る大輪寺があります。すぐ近くの山口地区で採れたりんごは、この駅から上田駅へと運ばれて行きました。

上田花園駅
大輪寺
柳町

川原柳(かわらやぎ)駅

「かわはらやなぎ」や「かわらやなぎ」と読み間違えてしまう程に、地元民でも読みづらい駅名です(笑)。もともとは、 真田氏の後に上田城主となった仙石氏が、上田城再建のために呼び寄せた瓦職人が住んだ事に由来した町名が駅名となっていました。ここから、真田方面に登っていく形で線路は続いて行きます。

川原柳駅
神科駅

神科(かみしな)駅・樋之沢(ひのさわ)駅

神科駅があった場所は、現在の上田菅平IC付近です。近くには、村上義清によって武田信玄も大敗した「砥石崩れ」で有名な砥石米山城があります。樋之沢駅は、第5中学校のすぐ横あたりです。現在でも駅のホーム跡がくっきり残っている為、廃線めぐりのファンにとってはかなりテンションの上がりそうな場所でした。

伊勢山駅

この駅は真田傍陽線の前身である北東線が開業した際の終着駅でした。駅を出てすぐに、伊勢山トンネルに突入して神川鉄橋(川久保鉄橋)へ出るという作りでした。鉄橋は残っていませんが、伊勢山トンネルは菌類の栽培に適しているということできのこの栽培場として利用されています。

伊勢山駅からトンネルを見る
現在の伊勢山トンネル

殿城口(とのしろぐち)駅と下原下(しもはらした)駅

殿城口駅は、開業した際には川久保駅という駅名でしたが後に改名された駅です。旧真田町に入ってすぐのスーパーマーケット裏あたりが駅跡なのですが、その痕跡は見つけることができませんでした。近くには、真田幸隆の弟である矢沢綱頼が築いた城跡の矢沢公園があります。殿城口駅と下原下駅の途中から、真田傍陽線廃止後の線路跡を利用して現在の国道144号線が作られたため道路を辿れば真田駅へと到着します。

本原(もとはら)駅から真田駅 ~真田線~

本原駅は、真田線と傍陽線に別れる分岐駅でした。本原駅から北本原駅、石いしふね舟駅、長おさむら村駅、真田駅の駅跡は、バス停を目印にするとわかりやすいです。特に、北本原駅付近にある有名な食堂で当時の写真や資料を見ることができます。終点の真田駅跡は、ホーム跡や駅前ロータリーの雰囲気が残っています。ここから、御屋敷公園や真田氏歴史館、角間方面に向かえば角間温泉や猿飛佐助が修行したといわれている角間渓谷などがあります(真田坂15号参照)。

矢沢公園
真田駅
真田駅

本原駅から傍陽(そえひ)駅~傍陽線~

本原駅から傍陽駅までは、現在の県道35号線に沿って線路がありました。本原駅を出発すると横尾駅、曲尾駅の順に止まります。横尾駅跡の近くには、真田一族の隠し湯の一つといわれる千古(せんご)温泉や霧隠才蔵が修業をしたという千古滝があります。曲尾(まがりお)駅跡には、当時を思わせる駅跡の標識が立っています。

ここから、上田方面に振り向くと草が生い茂っていましたが一直線に伸びる線路跡を見ることができました。そして、終点の傍陽駅です。近くには、昌幸の2人の兄が眠る信綱寺(しんこうじ)とそのすぐ横の古城緑地広場があります。めちゃくちゃ雰囲気あるいいところでしたので、是非足を運んでみてください。

川久保鉄橋を渡る真田方面行
本原駅での交換風景
長村駅に到着

終点駅

さて、廃線めぐりを終えて物語も終点駅に向かいます。真田傍陽線は廃線となってしまいましたが、六文銭を新たに背負う電車たちがあります。JR西日本では大阪と和歌山で真田丸ラッピング電車を走らせていました。南海電鉄は真田幸村をイメージした真田赤備え列車。しなの鉄道は豪華観光列車「ろくもん」。そして、上田交通別所線でも真田丸ラッピング電車を走らせていました。そして、各地で色鮮やかにはためく六文銭の旗が形だけでなく本当の意味での覚悟を決めた「しるし」であるならば、真田一族のように輝きを放っていくのでしょう。

「日本一の兵どもが夢の跡」松尾町

●現在も走る真田ドリーム号
資料提供:奥村  栄邦/上田市/長野県立歴史館/上田電鉄株式会社

~街歩きエッセイ~ツバメの渡る街

文●村上 啓太

桜の花も咲こうかという心地良く晴れた日、足早に商店街の坂を下っていると頭上から聞き慣れた鳴き声が聞こえてきた。見上げれば、店のひさしの支柱には一羽の白黒の小鳥。ツバメである。もうそんな時期かと思わず頬が緩んだ。

学生の頃には東京や神奈川の街で暮らしていたが、思い返してみると、ツバメの姿を見たという記憶がほとんどない。上田の街にツバメが多いのは、彼らが住むのに適した環境——餌の豊富な山野や塒《ねぐら》となる川の葦原など——が揃っているためなのであろう。

そんな環境の他にもう一つ、ツバメが巣を作る場所には大事な条件がある。ツバメは「人通りの多いところ」に巣を作るのだ。人の近くにいれば卵や雛を狙うヘビやカラスなどの天敵が寄ってこない。だからわざわざ街中の、しかも大通りに面したような場所を選ぶのである。

数年ほど前、商店街の一軒の店のシャッターが下りてしまった。その店の軒下にもまた毎年ツバメが巣を作っており、フンの掃除に難儀している様子がうかがえたものだった。その店の前を通った時にふと気が付いた。そういえばここ数年、店先がフンで汚れていない。閉店して以来その店にはツバメが来ていないのだ。ああツバメ達はちゃんと見ているんだな――と感心してしまった。

ツバメ達はいつの頃から上田の街にやって来るようになったのだろう。人の動きに敏感な彼らのことだ、真田氏が上田城とその城下町を築き上げてからほどなく、集まって来たのではないだろうか。人と暮らす鳥ツバメ。彼らが「この街で巣作りをしたい」と思えるような活気が、いつまでもなくならないで欲しいものである。

編集後記
好評だったNHK大河ドラマ「真田丸」を弾みとして、引き続き松尾町商店街から上田の魅力を発信いたします。寄稿や取材協力いただいた各位に厚く御礼申し上げますとともに、今後とも真田坂をよろしくお願いいたします

発行日:2017年3月31日
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● 発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
● 理事長:寺島秀則定休日:水曜日
● 「真田坂」担当理事:飯島新一郎
● スタッフ:佐藤隆平/志摩充彦/平林敏夫/増田芳希/飯島新一郎/町田和幸/村上啓太