信州上田 松尾町商店街

松尾町から上田を発信する 松尾町から上田を発信する

見果てぬ解を追い求め ~和算家 竹内善吾

文● 寺島遼
監修●上田社会教育大学講師 尾崎行也
長野県和算研究会幹事長 小林博隆

日本独自の数式である傍書法(ぼうしょほう)を用いて算題を解いている様子。
傍書法は関流和算の開祖である関孝和(せきたかかず)が開発した解法で、
和算の飛躍的発展をもたらした。
清水流規矩術外伝
(上田市立図書館蔵)

和算初級問題

鶴亀算鶴と亀が合わせて8匹、足の数が合わせて26本あるとき、鶴と亀はそれぞれ何匹いるでしょう?(鶴の足は2本、亀の足は4本とします。)解説)この問題は古くは中国で生まれ日本に伝わったそうです。当初は雉と兎で出題されていましたが、江戸時代に日本でめでたい生き物とされる鶴と亀に置き換わったようです。現代人にとっては、連立方程式で解く方法がもっともシンプルかもしれません。

答: 鶴3匹、亀5匹

人間は様々な地域で、その文明とともに数学を発展させてきました。東洋でも古くから数学の研究が行われており、中国文化の流入が日本に膨大な数学の知識をもたらしました。江戸時代になると日本の数学は、「和算」として独自に発達し、そのレベルは西洋数学と肩を並べて世界最高水準となったのです。

和算の一つの特徴としてその遊戯的性質が挙げられます。学問としての地位は確かにあったのですが、数学的発見の成果を新しい技術に応用するといった向きはあまり見られず、むしろ問題を解くこと自体の楽しさによって人々に親しんでいったようです。代表例としては、絵馬などに問題を解いて記したものを神社に奉納するといった算額文化(さんがく)があります。問題が解けた喜びを神仏に捧げるという形で記録に残したものですが、解法を省略し問題と解答のみ記すという形式のため、見た人へ向けた出題としての面もありました。この算額奉納は和算の流行の中核を担っていました。文化としては他にも、全国の和算の実力者を相撲興行に倣い格付けした番付表が作られるなど、アミューズメントとしての広がりを見せます。

そんな中、この上田からも当時の番付最高位であった大関としてその名を刻まれる和算家・竹内善吾(ぜんご)が誕生します。今回は、善吾の来歴をご紹介すると同時に、江戸時代の人々と数学との関わり方を振り返ってまいりたいと思います。

天明4年( 1 7 8 4 )、善吾は上田藩塩田組山田村の農家に生まれます。幼少期のことは定かではありませんが、原町の山屋安兵衛に算学を習ったのが最初と言います。文化年間( 1 8 0 4~)初期より全国的にも名の通った和算家であった小諸の関五大夫に小村流和算、関流和算の教えを受けました。ここで秀才としての評価を得たものと思われ、善吾は百姓の身分でありながら藩の支援を受けて江戸に遊学に出される事になります。

故郷を離れた善吾は、山田鎗嶽(そうがく)という人に、測量および地図作成のための技術である清水流規矩術(きくじゅつ)を学びます。善吾の才能は江戸でも目立ったものだったのか、その評判から幕府直属の仕官話が持ち上がりますが、文化8年( 1 8 1 1 )、上田藩から横槍が入り、勘定方として召し抱えられ信州に帰ります。このとき侍としての身分を持ったため、諱(いみな)を武信(たけのぶ)と名乗りますが、以後の表記も善吾で統一したいと思います。

数字に強い和算家として能力を期待された善吾は、主に租税を算定するための測量を担当する検見(けみ)などの役職に就けられますが、他方、金策や米の買い付けのための交渉役なども果たします。ここでは、侍たちが嫌った、身分の低い商人を相手に頭を下げる役割を、農民出身の善吾が担ったといいます。いずれの仕事も賄賂や過剰な接待などが当たり前な現場で苦労しながらも仕事ぶりは評価されていたそうです。

行政官として職務に精励する傍ら信州の知識人らとの交流を広げ、研究者としての活動にも力をいれます。清水流規矩術の心得があった松本藩の山口清直(きよなお)らと交流したのち、松本藩と上田藩に伝わるそれらの知識を整理統合し『清水流規矩術外伝』(全8巻)を編著します。また文政5年( 1 8 2 2 )には租税業務に有用な『租税算梯(さんてい)』を公開します。これらは藩の実務に貢献しただけでなく、数理的背景やその理論の歴史的変遷にも言及がなされており、学問書としての価値もありました。 

善吾の数学的素養は、実用の分野にも業績を残しましたが、他分野への応用を主眼におかない純粋数学に位置づけられる和算がその本分でした。様々な和算の課題に取り組んだ善吾ですが、中でも代表的な功績と言えるのが、『二乗方(じょうほう)、三乗方算顆術(じょうほうさんかじゅつ)』という公式の発見です。当時日本人は、x2のことを自乗と表現しており、二乗、三乗はx3、x4を意味しています。『二乗方、三乗方算顆術』は「3次方程式、4次方程式の解の公式」でありました。(※1)

天保12 年の当時名人算者鑑
東の大関に竹内善吾の名がある
算額(常楽寺美術館蔵)
算法瑚璉

それまで和算家たちは、3次以上の方程式の解を、中国から伝来した天元術(てんげんじゅつ)(西洋数学のホーナー法に相当)などを用いて近似的に求めていました。善吾が示したものは、それらと一線を画す厳密解を求める方法であり、日本初の快挙でした。中身は西洋数学におけるカルダノの公式、タルタリアの公式に相当するものでしたが、善吾にそれらの知識が有ったわけではなく、独力で西洋の数学者と同じ水準まで到達したことになります。後にこの成果をもって東の大関に選ばれたのではないかと推測されます。

この頃になると善吾は幾人かの弟子を持ちましたが、彼らもまたハイレベルな和算家たちでした。実は、竹内家にあった善吾の和算に関する著作や資料の多くは善吾の三男重信(しげのぶ)の代に散逸したものと見られ、その功績の多くは門弟たちが残した記録によって今に伝えられています。二乗方、三乗方算顆術の成立年も不明となっていますが、善吾の門弟植村重遠と交流のあった上州安中藩士岩井重遠という和算家が文政11年( 1 8 2 8 )碓氷峠の熊野神社に奉納した算額にこの公式が使われており、それより前に発明されたと推察されます。

その他に、善吾と弟子たちは和算の一分野である円理(えんり)にも秀でていました。これは、円や球が関係する図形の面積や体積などを求める方法を追求したジャンルで、善吾たちの時代には積分法の計算なども活用した理論が展開していました。天保7年( 1 8 3 6 )、竹内善吾校閲という形で出された門弟小林茂吉の著書『算法瑚璉(さんぽうこれん)』は茂吉の奉納した算額を集めた当時最難題レベルの算題集でしたが、その中にも円理の複雑な問題が登場しており、竹内一門が円理を高いレベルで身につけていたことが伺えます。

生涯を通じて和算の研究に打ち込んだ善吾は、嘉永5年( 1 8 5 2 )、高齢を理由に隠居すると翌年亡くなります。善吾が晩年残した言葉に、

「寝ても忘れな鋤、鍬、鎌を 手書き算用は無くもよい」

という一節があります。これは、『田面栄え唄(たのもさかえうた)』という児童向けの歌集の中に登場します。明晰な頭脳によって身を立てた善吾でしたが、子どもたちには何よりも現場労働の大切さを説いていたということになります。

一方で弟子たちに向けては

「算術は六芸(りくげい)の一つである」

と語っています。六芸とは古代中国において高貴な人物が身につけるべき教養6種のことを指します。実直な公務員である善吾にとって数学とは、非日常的で崇高な、知への探求と呼ぶべき営みだったのかもしれません。

また『算法瑚璉』の序文において、

「ある人は『数学は実用により社会の役に立てるべきだが、茂吉の算額は役に立たない』という。しかし、実利への応用は官職にある者が行えばよく、私人である茂吉は純粋数学に傾注してよい。」

といった趣旨のことを述べています。これは、第一に与えられた職務に忠実であろうとする彼の誠実さを示すと同時に、数理追求に没頭することの尊さを知った者の言葉であると筆者は考えます。

ここに、役人として務めにあたる実務者の面と、和算家として数理を極めようと願う求道者としての面、またその両面を存分に発揮し自己研鑽を続けた善吾の器の大きさを垣間見ることができます。

現代の日本で数学といえば、理工系の学生に課されたハードルとなる科目というイメージがどこかにあるように思えます。西洋数学は、自然科学、とりわけ工学への応用により技術の進歩、ひいては軍事力の増強を生み出しました。また、経済学への応用により現代社会での勢力図を左右するツールとなっています。今や日本人も「実用の数学」文化の影響下に置かれているように見えます。

対照的に、和算は実用の分野にはあまり向かわず、知的遊戯であり、悪く言えば道楽であり、趣味嗜好と呼んで差し支えない数学でありました。「嗜好の数学」文化は、自由で楽しく、身分社会の江戸期にあって士農工商全ての人々を、遊び人から堅物までとことん魅了しました。5次方程式の解の公式は存在しないことが現在では証明されていますが、竹内善吾は『二乗方、三乗方算顆術』以後生涯その幻の正解を探し続けたそうです。

竹内善吾の墓(呈蓮寺)

池波正太郎と上田 ~ 池波正太郎真田太平記館を振り返る

語り ○ 池波正太郎真田太平記館館長 桜田幸士
開館当時について ○ 上田市副市長 井上晴樹
取材 ○ ドラいもん

作家・池波正太郎

池波正太郎は、大正12年、東京市浅草聖天町(現在の東京都台東区浅草7丁目)に長男として生まれ、父富治郎は日本橋の綿糸問屋に勤める通い番頭、母鈴は浅草のかざり職人今井敬三の長女でした。父親は大酒のみで、両親が離婚後、母に引き取られ浅草永住町の祖父の家に移ります。祖父教三は職人気質、江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがり、上野の美術館や不忍池の蓮、池の端の料理屋などに連れ出していました。

小学校卒業後は株式仲買店等の職を30転々とし、昭和21年、都職員だった時に戯曲『雪晴れ』にて読売新聞演劇文化賞に入選して文壇にデビュー。昭和年、師の長谷川伸から強く勧められて文筆業に専念し、昭和31年『恩田木工(真田騒動)』を発表し、始めて直木賞候補となりました。

その後、昭和35年『オール讀物』6月号に発表した真田家を材にした『錯乱』(90歳を過ぎた真田信之と真田家を思いのままにしようと謀る老中・酒井忠清の意を受けた隠密・堀平五郎との、権謀術数に満ちた攻防の物語)によって直木賞受賞。そして、昭和52年、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』などの作家活動により、第11 67回吉川英治文学賞を受賞しています。平成2年にはテレビドラマ『鬼平犯科帳』がスタートし好評を博しましたが、惜しくも池波は同年5月3日に歳で逝去。戦後を代表する時代小説・歴史小説作家としての名声をほしいままにした人生でした。

池波正太郎と真田

真田もの作品の集大成ともいえる真乱』(90歳を過ぎた真田信之と真田家を思いのままにしようと謀る老中・酒田太平記は、昭和49年から57年まで9年間にわたり『週刊朝日』に連載された池波正太郎の一大長編。信州・上州にまたがる領地を守る上田の真田家の攻防を主軸に、戦国末期の様相が、雄大なタッチで描写された大河小説です。池波作品の原点ともいえる「真田もの」の、そしてその後に人気作となった「忍者もの」の集大成と言える作品といえます。

物語は、天正10年(1 5 8 2)から元和8年(1 6 2 2)までの40年間に起こった歴史的な出来事を軸に、上田城を築いた真田昌幸と信之、幸村父子二代、その真田氏に関わる人々、歴史上の人物、また、女忍びのお江(こう)など忍びの者たちで構成されています。N H Kで、昭和60年から61年にかけて草刈正雄、渡瀬恒彦、丹波哲郎、紺野美沙子等豪華キャストを揃え全45話で放送され、話題となりました。

朝日新聞社刊 真田太平記 全巻

池波正太郎は取材のためたびたび当地上田を訪れ、真田氏ゆかりの地を丹念に歩いています。上田の街を歩きながら、戦国時代の武将達に思いを馳せ、彼らの置かれていた立場をより深く考察し、『真田太平記』に登場させたのでしょう。

池波正太郎と上田

池波正太郎は昭和40年のN H K「日曜散歩・上田と別所」の収録から昭和60年6月に上田市文化会館での講演まで20年間に渡って、幾度となく上田を訪れています。真田氏の香りを残す上田を、そして、戦中の空襲や戦後の高度成長で建てられた高層ビルや日本橋の上を走る高速道路などで失われてしまった東京の古き良き情緒を上田に感じ、なつかしく思っていたようです。池波正太郎の作品での生き生きとした真田の描写には、こうした上田愛と憧憬をも投影したものであると言えるのかもしれません。

池波正太郎は、『信州上田の四季』(上田市観光課・昭和50年)、『一升枡の度量』(ハルキ文庫)に次のように上田について書いています。

「駅前からの坂道をのぼって上田城へ達する道すじに、私はかぎりなく旧城下町のおもかげを看る。なつめ河岸のあたりも、好きだ。そして、古いのれんをくぐって入った店の蕎麦の味もなつかしくてたまらない。裏通りのカレーライスを深夜の書斎の空腹時に思いうかべることもある。(中略)東京にいて、折にふれ、上田の人々の顔をおもい、上田の町をおもうことは、私の幸福なのである」

ここで登場する手打ちそば「刀屋」、馬肉の「但馬軒」、カレーハウス「べんがる」など、上田には作家池波正太郎が愛してやまなかった名店や場所が多く残っており、没後30年経った今も池波の愛した息吹を感じる町です。

池波正太郎真田太平記館は、真田氏ゆかりの文学作品等を通じて、ふるさとの再発見とまちづくりに供するため、池波没後8年後(平成10年)に上田市立として開館しました。上田駅から真直ぐに真田坂を上り、中央交差点を通り過ぎた原町商店街の道沿いに建てたのは、作家池波正太郎が愛した上田の街を感じていただきたかったからです。開館から20年経った今も、若い頃から信州の風土をこよなく愛し、「真田もの」を書き続けた池波作品の魅力を伝えていく役割を果たし、そしてその魅力が普遍的なのと同様に、池波正太郎真田太平記館もまた変わることなく今後も継続して行くつもりです。

池波正太郎真田太平記館

最後に、施設について詳しく説明して頂きました。「当館は、真田氏ゆかりの地を訪れてくださる観光客の方々、池波正太郎ファンの皆様に愉しんで頂くことは勿論、上田に暮らす皆様に池波作品等を通じて、私たちが普段気付かずにいる、ふる里上田を再発見できる場でもありたいと考えています。池波正太郎が愛したような、温かな暮らしのある街づくりへの願いが込められているのです。常設展に加え、商家の蔵を活用したシアター、真田太平記名場面挿絵原画を展示するギャラリー、そして年4回の特色ある企画展や池波氏にゆかりのある方々をお迎えし、タイムリーな講演会(サロントーク)も開催しておりますので、折に触れて沢山の方に立ち寄って頂きたいと考えております。」

おまけに

たまたまですが、別の日に井上副市長に会う機会がありました。井上副市長は、池波正太郎真田太平記館の立ち上げにたずさわった方です。桜田館長のお話も伺っていたので、これはチャンスと思い、設立当初の思い出や苦労話なんかを聞いてみました。

「私が池波正太郎真田太平記館に関わらせていただいたのは、当時の竹下市長(平成6年~9年)のもとで、商工課とは別に街区振興課という今で言う中心市街地活性化を担う部署の係長だったからなんだよ。市長の号令のもと人通りが寂しくなりつつある街を何とかしようと、用地買収から故池波正太郎さんのご家族や関係者さんとの交渉などを担当させてもらったな。」

「きっかけは、当時の竹下上田市長と堀上田商工会議所会頭がある方を通じて、池波さんのご縁のあった地域に物品を寄付して貰うのはどうだろうかという話を貰い、故池波さんのご自宅に伺って来られたところからかな。私は、話は通してきたので、資料の確認に行くようにと言われ、行政の担当者としてご自宅へお伺いさせてもらったんだ。
笑い話だけど市長も会頭も大事な部分を聞き逃していたらしく、既に故人の物品は奥様の意向で東京の台東区に寄付することが発表されていて、台東区の教育委員会と齟齬がでちゃって、最初はひどく罵られたかな。
こっちは商工関係の部署だったから、上田市さんは池波まんじゅうでも作るつもりですか?なんて言われちゃって。
ただ、何度も伺って関係者の方に真田と上田の繋がりで真田太平記に特化したものを作らせて欲しいということで、ご理解を頂き設立までの道筋がついたんだけど、難しかったのは、故人ご家族の意向で記念館的なものは作って欲しくないということと、真田太平記で真田ものは卒業ということで、その後の作品の資料なんかは比較的にあっても、肝心の真田太平記の資料の大半が処分されてしまっていたんだよね。」

「台東区もそうなんだけど、記念館ではなく池波正太郎記念文庫。これは、時代小説作家は気取りたくないということだと聞いているんだけど、時代小説はそもそも楽しいものなんだからさ。その楽しさを伝える施設なら良いけど、故人の偶像崇拝みたいな施設になるのは嫌だ、という思いが記念館は作らないという意向の意味なわけさ。池波作品は歴史小説ではなく時代小説だと思うんだよね。歴史小説は社会の歴史観が変わると飽きられてしまうけど、時代小説は、極端に言うと今の時代に生きる人でも共感できる。飲む、打つ、買うに代表されるように人間の根底、らしさ、娯楽的な部分に訴えるところが多いから飽きられない。そういう部分も考えて、施設には反映したかな。」

なるほど、だから池波正太郎真田太平記館はエンターテイメント的な要素が混ぜ込んであるのかと思いつつ、そういえば瓦に六文銭があしらってあったり、上田城のお堀を意識したかのような水路を作ってあったりと細かいところに、たずさわった方々の思いが散りばめられているのかなと考えさせられました。

 最後に、当時のまちづくりから今の「まち」についてお聞きしました。

「確かに、施設を拠点に点から線、そして面にしようという思惑はあったんだけど、続かなかった理由は、それを続ける人間がいなかったということだと思う。行政の人間としてこんなことをいうのは怒られるのだろうけど、行政の人間だけでは駄目で、市民や商店の方も一緒になって議論をする場や、コンセンサスを形成できるようなところと行政が協力していくことで、現実的な、ニーズにあった街づくりが行われていくんだと思うよ。」

さて、ぶらりと蔵巡りがだいぶ遠回りになってしまいました。なかなか考えさせられるお話も伺う事ができ、色々なものを学ぶ機会になりました。次はどこに行こうかな。

編集後記
和算の高度さを調べる中で、人間の知的好奇心の力強さを再認識させられました。
また、池波正太郎真田太平記館の開館にまつわるお話は、興味深いものでした。
取材にご協力頂いた皆様ありがとうございます。(飯島)

発行日:2020年3月31日
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