真田坂 第13号
街ってなに?-上田の商店街と薬局-
文=ドラいもん
写真=平林敏夫
商店街に薬局が多い理由
上田の商店街って薬局が多いと思いませんか?今回、真田坂フリーペーパー部はこの疑問を解明すべく松尾町にある薬局さんに取材に行ってきました。
はじめに、やまぎわ薬局さんに伺いました。取材に応じていただけたのは、大先生こと山極勝夫さんです。
さっそく「何で上田の商店街には薬局さんがいっぱいあるんですか?松尾町の場合は上田病院さんがあるからですか?」と伺ったところ、「わからないね」と一刀両断!「ウチの場合は、たまたまここに土地、建物があったから」との答えに、我われ取材班は「これじゃ記事にならねぇ〜よ!(涙)」と焦りましたが、それでも何か、とお願いしたところ「1948年(昭和23年)の薬事法改正で距離制限規定が施行される前に、とりあえず街の中に店を出しておこうと思ったのかもね」との答え。
因みに、この距離制限規定は1975年(昭和50年)に、憲法22条1項(職業選択の自由)に反する(最高裁判例昭和50年4月30日)として違憲判決が言い渡され現在、距離制限はありません。
それでもと食い下がったところ、創業当時の松尾町の話をお聞きすることができました。「昭和33年の創業当時、上田の商店街では原町が一番すごかった。松尾町は上田駅と原町とをつなぐ道で人通りがある程度あった。松尾町で店を出すとき、坂のある商店街は栄えたためしが無いとよく言われたなぁ〜」「薬局っていうのは、商人と職人(資格者)という両方の立場がある。栄養ドリンクを売るのが商人、薬を調合するのが職人。昔は薬を調合してもあんまり儲からなかったから、同業者から週刊誌を売っているほうが儲かると言われていたよ。今は、逆に職人(資格者)がいいと言われるが、結果であってこの先はわからないよね」「申し訳ないけど、結論としてどうして商店街に薬局が沢山あるのかははっきりわからないね(笑)
ヒントは○○○〜薬局がふえていった理由
続いて、取材班は藤岡薬局さんに伺いました。藤岡薬局さんは松尾町で最も歴史のある薬局で創業90年以上の老舗です。取材に応じていただけたのは、4代目になる藤岡幸司さん。「理由?昔は郊外に薬局がなかったからじゃない。病院や診療所も回りに沢山あったし。普通は、郊外が栄えると街中の店舗を辞める業種が多いけど、薬局は残ったんじゃない。まぁ、考えられるとしたら、特に上田は医薬分業の歴史が古いからじゃないんですかね」との答え。因みに、病院・診療所で直接薬をもらうことは院内処方と呼ばれ、薬ではなく処方箋をもらうことは院外処方と呼ばれます。この院外処方が「医」と「薬」を分けているため医薬分業という言葉が使われています。
結局、藤岡薬局さんではこれ以上取材できなかったため、続いて上原薬局さんに取材に伺いました。取材に応じていただけたのは、松尾町自治会長の上原剛さんです。「理由はわからないけど、確かに上田は薬局が増えたなぁ。私が昭和50年に帰って来た時は、上小地域合わせても30店舗位で、今は上小地域で80軒以上あるんです。増えた理由としては、医薬分業の歴史があるということでしょうか。その歴史は、紀元前の時代から王様の暗殺、毒殺を防ぐために始められたそうです」「薬剤師の大きな意義は薬の正誤を確認するということ!疑義のある薬をそのまま処方された場合には、薬剤師はこれを止めることが出来るし、止めなければならない。判例でも薬剤師に責任があるとされています」
最後に、今年で創業75年のイケダ薬局さんに取材に行きました。取材に応じていただけたのは、村上肇・圭子ご夫妻です。「昭和40年位から全国的に一気に薬局が増えた気がしますね。理由としては、昭和29年の医薬分業法案(医師法、歯科医師法及び薬事法一部改正・昭和30年1月実施)によって院内処方より、処方箋を出す院外処方の方が点数が有利になったことが大きいと思います。また、200mの距離制限があったことも関係するかもしれませんね。今年4月の薬事法改正で登録販売者と名前は変わりましたが、薬種商のお店の子供が昭和40年位から薬剤師の資格に切り替え始めたのも理由の一つだと思いますよ」
※薬種商とは、都道府県知事が行う薬種商販売業認定試験に合格したもので(現在は、登録販売者認定試験)、医薬品販売業に従事する資格の一つである。薬剤師国家試験に合格した薬剤師との大きな違いは、販売できる医薬品は限定されていて、薬剤師のように処方箋を調剤することはできず、薬剤師がいない場合「薬局」とは称することはできないので、「薬店」と称することが多い。
結局わかりませんでした(スイマセン)。でも・・・、
結局、推測ですが上田の商店街が発展していったと同時に薬局さんも増えていった、集まってきた。という事だと思います。距離制限や医薬分業(保険の点数が上がった)、薬種商から薬剤師への転換ということは、全国的に薬局が増えた理由だとは思います。
ただ、これだけの狭い地域に薬局が集中しているということは、歴史がある商店街ということが言えるのではないでしょうか。例えば、距離制限一つにとってみても、これが施行される前からあったということでしょうし、「上田は医薬分業の歴史が古くからある」という意見もこれを裏付けるものだと思います。
街ってなに?〜街の歴史を感じて物事の背景を考えてみる
今回の薬局さんの取材でお気づきになられた読者の方は多いとは存じますが、商店街に集まる一定の業種、さらに言えば、一定の業種だけでなく一つ一つお店には一つ一つの歴史があります。さらに言えば、全ての物事には、表には見えていない背景というものがあります。そういった背景というものを考えながら、「随所に歴史を感じる街、松尾町」を歩いてみてもいいんじゃないでしょうか。 (^_^)v
上田に花開いた洋楽文化〜 上田のジンタと中山晋平・松井須磨子の活躍〜
文・北條彰一
「あの松井須磨子が松尾町に住んでいた」といっても「どの?」と言われてしまいそうですが。日本の演劇史、女性史を飾る松井須磨子が真田坂を歩いていたのです。
彼女の生きた大正という時代は、現代に繋がる新しい文化が開花した時代でした。上田も「蚕都上田」の豊かな経済力を背景に、地方の一都市とは思えない文化が息づいていました。それらは「農民美術」「自由画運動」「上田自由大学」などに代表される、民衆を主体とするリベラルな動きであり、上田は新しい時代の先端にありました。
そんな上田の躍動を松井須磨子、彼女の歌う「カチューシャの唄」の作曲を始め今なお歌い継がれる数多くの唱歌を作曲した中山晋平の二人と上田の洋楽文化を中心に、上田マルチメディア情報センター初代所長、北條彰一氏にお話を伺いました。
大正ロマンに思いを馳せながら「真田坂」を歩いてみて下さい。
日本初の新劇女優「松井須磨子」の誕生
松井須磨子(小林正子)は明治十九年十一月、松代清野の旧家小林家(父小林藤太)の、四男五女の末っ子に生まれました。
六歳の時、父の妹の嫁ぎ先である上田の長谷川家(養父長谷川友助)の養女となり、明治三十四年十五歳で上田女子尋常高等小学校を優等で卒業しました。
しかしこの年、養父が死去し、また養母も夫の死後の身の振り方の問題もあり、養子縁組を解消し実家に戻りました。十年間の多感な少女時代を、上田で過ごした須磨子は、どの様な思い出を胸に清野に帰っていったのでしょうか。彼女が唯一書き残した「牡丹刷毛」(大正三年七月十日発行新潮社)という本が遺されていますが、小学校時代の思い出を、小説風に綴っているものが残っています。
このころの上田は「蚕都」として賑わった時代です。
須磨子が上田に来た少し前、信越線が開通し上田駅ができ、松尾町の通りができました。須磨子が養子に入った長谷川家は、この松尾町に洋品店を開業していたということです。
須磨子の通っていた小学校では、このころ上田出身の松平志津馬先生が、クラリネットで「唱歌」の授業を行っており、須磨子も多分、この授業を受けていたと思います。また、上田には明治二十九年に鄙にはまれな立派な吹奏音楽隊「上田音楽隊」が結成されており、松平先生の指揮でハイカラな洋楽を颯爽と演奏しながら、上田の街を行進していました。この「上田音楽隊」は明治初期に外国から導入された、軍楽隊の流れを汲むもので、吹奏楽器と太鼓で編成された音楽隊です。
明治二十年代に入ると東京では、民間の音楽隊が創立されますが、洋楽教育の進んだ上田では、明治二十九年に編成されました。これは上田房山で古くから醸造業を営んできた「酒富」の柳澤憲一郎さんから、筆者に提示された褪色した写真を、デジタル化して復元しその存在を確認したものです。楽隊の指揮者は松平志津馬という、当時二十歳の青年でリーダー役を務め、明治、大正、昭和初期まで、上田近辺の小学校の音楽教諭で活躍した、上田の洋楽教育に大きな貢献をされた先生です。
松平先生は明治九年に上田の資産家町田家に生まれ、少年のころからクラリネットを巧みに吹く、音楽好きの少年でした。彼は十八歳のとき、上田の松平家に養子入籍をしました。故松平忠久氏(元衆議院議員)は志津馬先生のご長男で、やはり音楽好きで青年時代には、コルネットを吹いていたということです。
このように商売の賑わいと町文化の豊かさを持つ「蚕都」上田の街で、須磨子は幼いながらも文明開化の雰囲気を、しっかりと身につけ、やがて日本初の新劇女優の道へ、進むことを決心したのです。
日本には古くから「歌舞伎」という優れた演劇がありますが、明治の末期になると、西欧先進国から、近代の思潮に彩られた戯曲が入ってきます。トルストイ原作「復活」、イプセン原作「人形の家」など翻訳劇が上演されるようになります。これは「歌舞伎(旧劇)」に対して「新劇」として芸術志向的演劇を目指す動きでした。坪内逍遥・島村抱月が「文芸協会」(明治三十八年創立)を、小山内薫・市川左團次は「自由劇場」を結成しています。
松井須磨子が新劇女優になることを志して、明治四十二年、文芸協会演劇研究所に入所.四十三年三月、演劇研究所第一回試演会「ハムレット」に、オフェリア役でデビューし成功を収めました。四十五年ごろから須磨子と抱月は、熱烈な恋愛関係に落ちます。二人の恋は社会的に大きな反響を巻き起こし、逍遥は文芸協会規範に違反したとして、須磨子を「諭旨退会」処分としましたが、抱月も協会を辞任し早稲田大学教授の地位も捨てました。
大正二年二月、抱月と須磨子は、新劇の確立を目指して、新しい劇団「芸術座」を設立し活動を始めました。公演は噂の渦中の須磨子の演技を見ようと、大入り満員であったのですが、興行の運営、劇団員の統括などの不安定さが目立ち、抱月は苦境に立たされます。そして大正三年一月、抱月は満を持して芸術座第三回公演として、トルストイの大作「復活」を上演しました。抱月はこの劇のヒロイン(カチューシャ)を演ずる須磨子に、ヒロインの想いを歌わせるという新しい趣向「劇中歌」を取り入れ、大向こうをうらなせたのです。
「カチューシャ可愛いや別れのつらさ・・・」という「カチューシャの唄」とともに,須磨子の演ずる「復活」は大評判となり、大正三年から七年までの上演回数は、四百四十四回を数えたといいます。続いて大正四年四月に上演されたツルゲーネフの戯曲「その前夜」で歌われた「ゴンドラの唄」も大ヒットとなり、抱月、須磨子、そして芸術座の存在は全国に喧伝されていったのです。
須磨子の郷里長野県でも、大正三年五月の長野市三幸座を皮切りに、公演が数多く行われ、大正四年七月五日六日には、上田町の中村座でも公演が行われています。
作曲家「中山晋平」と松井須磨子の出会い
中山晋平は須磨子が生まれた翌年の明治二十年、松代からそう遠くない日野村(現中野市新野)に生まれました。明治三十三年五月、上田音楽隊は下高井高等小学校で開催された、赤十字の地方部会に招かれて演奏をしました。
『赤いズボンに金モールの飾りのついた上着を着たきらびやかな服装や、吹き鳴らす勇壮活発な「敵は幾万」や「あなうれし」などのメロデイはどんなに私の音楽に対する憧憬心を沸き立たせたことか!子供心にすっかり感激した私は、一生音楽の方面へ進もうと決心の臍を固めたのもこのジンタを聞いてからのことであった』「中山晋平自譜」(昭和十年八月)より
中山晋平はこの時、高等小学校の二年生でした。晋平は日野村の旧家に生まれましたが、父が早くに亡くなったため、家の経済状況は逼迫しており、とても東京の音楽学校に、進学できる状況ではありませんでした。高等小学校を卒業して代用教員の資格をとり、地域の小学校に勤務していました。しかし明治三十八年親戚の人を介して、島村抱月の書生の働き口が紹介されました。
こうして音楽への道が開かれましたが、書生の仕事、音楽学校入学の準備と、大変な苦労を乗り越え、明治四十一年、念願の東京音楽学校ピアノ科に(現東京藝術大学)に入学し、四十五年、音楽学校を卒業し、浅草の千束尋常小学校の音楽専任教諭となりました。そして大正三年一月、抱月は「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」の作曲を、晋平に依頼しました。抱月のこの唄に対する想いは非常に高く、晋平は作曲に苦労しましたが、須磨子の演技力と晋平の作曲の力量は、抱月の主催する芸術座の名声を、さらに高めることになりました。
書生時代に抱月の薫陶を受けた晋平は、抱月の「中山君、大衆なくしては、芸術は存在しないんだよ」ということばを胸に、大正から昭和の時代に信州の誇る大作曲家となったのです。
抱月、須磨子そして晋平の三人が東京で出会い、大正のロマンの時代を彩る存在になったことは、全くの偶然の出来事であったのでしょうか。私はそこに上田を軸として、明治十年代後半の「洋楽事始め」に敏感に反応した先人達の音楽教育の成果が、この山国信州から須磨子、晋平という、時代に先駆けた文化人を、輩出することに繋がったと思っています。
写真提供=上田市立博物館、中山晋平記念館
街歩きエッセイ「鳥衣巷に思う」
文・松尾翁
先日、NHKのテレビを見ていたら、中国・南京市、烏うい衣の港の風景が映っていた。
ふと想い出した、唐の時代の詩人、劉禹錫(りゅううしゃく)の漢詩に
朱雀橋辺野草花 (すざくきょうへんやそうのはな)
烏衣巷口夕陽斜 (ういこうこうせきようななめなり)
旧時王謝堂前燕 (きゅうじおうしゃどうぜんのつばめ)
飛入尋常百姓家(とんでじんじょうひゃくせいのいえにいる)
むかしは、朱雀橋付近に王氏・謝氏と言う大富豪の家があり、燕は大富豪の家に巣を作っていたが、衰退し今は、ありふれた庶民の家の軒に巣を作っていると言う、何時の時も、やり方を間違えれば、家の前は雑草が生えてくる。
この様な詩であるが、上田の中心市街地も昭和50年代までは、人込みで賑っていた中央2丁目の交差点界隈、その核となっていた「ほていや」がなくなり、「一富士」のビルも今年5月に取壊された。次に、何が出来るか、何が、上田の中心商店街再生の切札となるか、又、「ほていや」の様なビルになるのか、上田市も商店街も市民も一緒に「街」につい考えないと、自分たちの子供、孫に 先人が作ってくれた上田を残すことが、出来ないのではと、考えてしまう。
どこの地方都市も金太郎飴の様に同じ街、近代化された、便利な街が、決して良いとは限らない。不便でも、人間らしい街なら良いのではないか!
便利性を追い求めて、郊外・郊外と街が大きくなるが、高齢者時代になり、逆に、買物に行けなくなり、人に頼らなくては、生活できない時代に成ってきているように思える。せめて、息子・娘・嫁に気兼ねなく、生活できる街を取り戻したいものである。
真田坂サロンがオープンしました
「真田坂サロン」は松尾町商店街が企画運営するサロンです。6月に新聞公募し、また協力をお願いした方々にご参加いただき、様々な方面からのお話を伺い、語り合うサロンです。私共のフリーペーパー「真田坂」では、「街ってなに」をテーマのひとつとしてきました。街の役割は何なのか、人々が集まる街にするにはどうしたらよいのか、などを考える中で切り離す事ができないのが、私達の「暮らし」です。
暮らしの在り方によって街は変わっていき、街の在りようが暮らしを支えていく。サロンでは、私達の暮らしを培ってきた上田の文化・歴史や今の姿などを、色んな角度から見つめていきたいと思います。
サロンと呼ぶのは、肩肘を張らず、気楽で自由な語らいの場にしようとの思いからです。公聴は自由です。各回の日程、内容は「真田坂Web」でお知らせ致します。サロンでのお話は、「真田坂」にも掲載していきたいと思います。
どうぞ、お気軽にお出かけ下さい。
編集後記
発行日:2008 年9 月10 日
お待たせしました。真田坂13号をお届けいたします。
今回、ご投稿いただいた皆様方および関係者の皆様方には、たいへんお世話になりました。この場をおかりして厚く御礼申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。
●ご意見、ご感想等をお寄せ下さい。 FAX 0268-21-1100
●真田坂web:http://sanadazaka.jp
●発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
●理事長:矢島嘉豊
●「真田坂」担当理事:志摩充彦
●スタッフ:平林敏夫、増田芳希、佐藤隆平、飯島新一郎、町田和幸、ドラいもん、松尾翁、店商院
●紙面編集:久保田康之