街ってなに?-街の図書館-
祖父、三吉米熊
- 坂本龍馬の盟友、長州藩士「三吉慎蔵」の長男として生まれる
- 近代的養蚕技術のパイオニアとして上田に降り立つ
- 上田を養蚕の一大学府として整備(信州大学繊維学部など)
- 上田とかかわりのある山口県(旧長州藩)の史跡について
文・矢島嘉豊
私の小さい頃は、親に連れられ一緒に幼稚園に行くということが、今と違って少なかったと思います。それだけ世の中が危険な時代でもなく、周りの大人の目が光っていたのでしょう。だから、毎日の行き帰りは冒険であり、新しい発見の場でもありました。竹の湯(原町・丸山文具店の路地裏)近くでパンを買う。一人で買い物をする事は大変興奮する事でもありました。親は仕事が忙しく、やれる事は自分でしなくてはいけない時代だったのかも知れません。
当時、家の近くに「むかでや」と言う魚屋があり、今まで見た事が無い怪物のような魚が大きな釣り針にぶら下がっていたのには驚きました。のちに「鮟鱇(あんこう)」と言う魚だと知りました。夜の街は、裸電球が沢山ぶら下がって、まるで縁日・遊園地に行っているような、絵本の様なメルヘンの世界でした。街は、毎日々々が新しい発見の場でもあったのです。
色々あげるときりがありませんが、「街」は新しい出会いがあり、そんな思い出から、今、あの頃のような「楽しさ」「出会い」が街にあるのか少々疑問になります。何かを忘れてきたのか、人間の楽しみ方や求めるものが変わったのか、時代が確実に変わったのだと感じます。街もお客の要求に対応しきれない、対応出来ない店が多くなり、店も街も追い着いて行けなくなったのかも知れません。
この松尾町を見ても、縁日のような感動を与えるもの、心を躍らせるものがほとんど無いのが現状です。街は、商品を販売するだけになってしまい、接客用語が上手になり、店の利益だけ追求するだけの街になってしまったような気がします。郊外にショッピングストアー・ディスカントストアーができ、確かに便利になったが、同時に人と人との「ふれあい」「おもてなし」の心が薄れてしまい、利益追求の店は、郊外でも中心商店街でも衰退するのではないかと思います。
この様な中でも「心のサービス」に心がけている所があります。松尾町に隣接する駅前ビルの中の、「上田情報ライブラリー」という図書館です。商店が、忘れかけている心のサービスを図書館スタッフ一同で心がけています。行政サービスでここまで進んでいるのには驚きます。前回号で掲載した「松井須磨子」の事を調べていて良い資料が見つからず、図書館の方に相談したところ、後日、数冊の関連掲載部分にわざわざメモまで張り付けて連絡まで頂きました。これには頭が下がった次第です。これからの時代、民間・行政関係なく心に響くサービスをした所だけが生き残れるのではないかと思います。
近い将来確実に高齢化社会がやってくる中、人に優しい、お年寄りに優しい街づくりをした所は、生き残って行けるようにも思います。交通の便・警察・郵便局・銀行・病院・買い物ができる店等が身近にあり、安心・安全な街作りが街の再生につながると思います。
文・西入幸代
写真・平林敏夫
先日、NHKの「私の1冊、日本の100冊」という番組で宮本常一著「忘れられた日本人」という本が紹介されました。面白そうだと思って読んでみることにしました。このように借りたい本の題名がわかっているときには近くの図書館へ行って申込をすると、たとえ目的の本がその図書館にない場合でも、他の図書館から取り寄せて貸ししてもらえます。身近な図書館を窓口として全国の図書館にある本を借りることができるというのは本当に便利なシステムだと思っています。申込から何日かして手にした「忘れられた日本人」という本は、民俗学者である著者が日本全国を歩き辺境の地で黙々と生きる日本人の姿を生き生きと描いた内容で、とても興味深いものでした。
上田駅前のパレオビル四階に「上田情報ライブラリー」という図書館があるのをご存知でしょうか。私はそこで毎週水曜日、来館された方々がインターネットやデータベースをお使いになる際のサポートをさせていただいています。具体的には、本などの検索方法やそれにともなうパソコンの操作方法のご案内です。
近年は各図書館がどのような本を所蔵しているかをインターネット上に公開しており、それぞれの図書館のホームページ上から検索することができるようになっています。この検索システムを使うと、題名がわかっていない場合でもキーワードを使って本を探すことができますし雑誌や文献なども探すことができます。何か調べものをするときにご利用いただければ便利だと思います。
また新聞記事はデータベースを使って検索します。上田情報ライブラリーの場合、朝日新聞、信濃毎日新聞、日経新聞などの記事を検索できるデータベースがあり、どなたでも無料で使うことができます。なお本や新聞記事の検索は図書館の職員に相談してやってもらうこともできます。
図書館利用法で、もうひとつぜひご紹介したいのは、地域の「記録」を図書館で保存してもらうということです。図書館では、上田地域や県内の企業、団体、学校、市民グループ等が刊行した図書、雑誌、新聞(社史、学校史、紀要、自治会誌、会報、パンフレット、調査報告書など)の寄贈を呼びかけています。個人が持っていたのでは時間の経過と共に失われてしまうかもしれない地域の資料を図書館で保存してもらえば、多くの人が借りて利用することができますし次の世代へ伝えることもできます。地域の記録や資料を集めて保存する役割をもつ図書館は、地域の将来のためにもあるのだと思います。
図書館は商店と同様に誰でも何の気兼ねもなく行くことができる公共施設で、本や資料を借りることはもちろん、相談も無料です。図書館をどのように使うかはアイデア次第、一度お出かけになってみませんか。
上田情報ライブラリー
文・三吉治敬
写真・ 飯島新一郎
明治から昭和にかけて、製糸業、養蚕業は日本の基幹産業として発展し、日本の近代化への経済的基盤として大きな役割を果たしました。その中にあって上田は全国有数の蚕種の生産を誇り、養蚕業は豊かな経済と文化を上田にもたらしたのです。
その上田の養蚕業の発展に力を尽くした人物が三吉米熊、その人です。米熊先生は、坂本龍馬を寺田屋で助け、龍馬が妻おりょうの行く末を託したほどの友人、長州長府藩士・三吉慎蔵の長男であり、小県蚕業学校の初代校長、上田蚕糸専門学校教授として生涯を蚕都上田の発展につくされた方でした。
今回は三吉米熊先生のお孫さんにあたられる、三吉治敬さんにお話を伺いました。
米熊先生が教壇に立った上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)の講堂。いたる所に蚕、桑をあしらった意匠が凝らされています。
米熊は、万延元年(一八六〇年)長州長府藩士三吉慎蔵、母イヨの長男として長門国(山口県)豊浦郡長府(下関市長府)に生まれました。父慎蔵は、幼少より武芸をたしなみ本藩(萩)の明倫館にも留学し儒学を修め文武両道に優れ特に藩主の信任が篤く、薩長同盟締結のため上京する坂本龍馬に京まで同道し、寺田屋事件に遭遇し龍馬を救出したのは慶応二年一月二三日のことでありました。この時慎蔵は三八才、血気盛んな壮年時代で米熊は七才という腕白盛りの時でありました。
米熊が生まれた豊浦は、今は下関市長府となりましたが、慶長後は支藩毛利氏の城下として続いた土地であります。その豊浦壇具川に沿った中浜で生まれました。この地は、西北に山々を背負い東南は急に瀬戸内海に迫り平地は極めて少ないため、町の大半は海に面して傾斜であります。下関から長府にいたる海岸沿いに平家が悲しい歴史を残し没落した壇ノ浦があります。長府の町は、今でも城下町として低い家並みに高い土塀を巡らした武家屋敷の面影が昔のまま残されております。このような環境の中で、米熊は幼年時代を過ごしておりました。
維新後、明治四年(一八七一年)藩主毛利元敏公の豊浦引き揚げに随行した父慎蔵に伴われ、米熊十一才の時、勉学のため東京へ出てきました。米熊は、私塾明治協庠社、勧学義塾などでいずれも英学を中心に学び明治十年一七才の時、攻玉塾に入学し校主近藤真琴(士族)のもとで海洋測量術、和漢、蘭英数学を学びました。
明治十一年には設立間もない内務省勤農局の駒場農学校(現東大農学部)農学本科に入学、十三年に農学本科を卒業後も学校に残って農芸化学本科に入り定量分析、定質分析、植物培養などの新しい学問を修得しました。
そして明治十四年、米熊二一才の時初めて職に就いたのは長野県であります。長野県に奉職したのは、県の高官に同郷の山口県出身者が大勢在職していたということと合わせて、父慎蔵の薦めがあったからです。米熊は長野県属・勧業課農務係に任命され、これが養蚕にかかわる原点となったのであります。明治十七年頃から蚕の病気微粒子病について本格的に研究し積極的に養蚕にかかわるようになっていきました。
特に蚕種製造においては上田小県の生産量は拡大し続け、明治二十年代には小県郡における生産量は全国の二割に達したと言われております。当時米熊は、県職員として養蚕の知識技術が不可欠だと考え、塩尻村の蚕種家藤本善右衛門宅に仕事の傍ら休日には長野から上田まで通って養蚕や蚕種製造を学んでおりました。
明治二十二年には農商務省より伊仏蚕業事情調査の一員に委嘱を受け養蚕の基本を勉強する事ができましたが、米熊はひとり自費で二年間留学を続け明治二十四年帰国。明治二十五年上田に誕生しました小県蚕業学校初代校長(現上田東高等学校)に就任しました。米熊三二才の時であります。
米熊の生涯は、どちらかといえば波乱に乏しかったと思われますが、母と妻とを殆んど同時に失ったことは人生最大の悲惨事でありました。それは明治四十四年の一月のことであります。下関長府の町に静かに暮らしていた母が一月十四日亡くなりました。その知らせを聞いて翌十五日郷里へ向かいました。ところがその日の夕刻、米熊の妻たき夫人が急死するという大変な事が起こってしまいました。米熊は、このことを上野駅で聞き終列車に乗り上田に戻ってきたのです。同時に母と妻を失った米熊(五十才)には、子供が七人おりました。私の父当時一七才を頭に末が三才の幼児がおりました。
奇しくもこの年、官立高等専門学校として上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)が開校し一期生が入学、十月十五日に改めて開校式が挙行されました。米熊は同校教授(兼務)として製糸科で養蚕法一般を指導しました。
米熊は、特に銭湯が好きでした。家で風呂を沸かしても銭湯の方が気持ちいいと言って、手拭をぶら下げて錦町(現商工会議所付近。真田坂12号表紙参照)の錦湯へほとんど休みなく通ったそうです。銭湯に入り、町の人と世間話や囲碁の話をするのが何より楽しみであったようです。
特に碁が好きで米熊の打つ場所は、主に松尾町の滝沢徳太郎氏宅(『蚕友』と言って蚕種や養蚕に使う器具などを売っていたお店)でした。蚕友は滝沢徳太郎さんの兄七郎さんが松尾町にお店を出した頃からよく通っていたようです。お互いに勝ったり負けたりよきライバルであったが銭湯の帰りに立ち寄るのを楽しみにしていたと聞いております。松尾町通りは一番身近に感じ気楽に遊んだ場所だったのかもしれません。
明治二十五年小県蚕業学校を生涯の活動の場と定め、それから六八才で亡くなるまで三十五年余にわたり上田でお世話になりました。父慎蔵は明治三十四年七一才で病没、下関長府にあります功山寺に慎蔵の墓があります。米熊の墓も生れ故郷父慎蔵の墓と向かい合って建っております。
功山寺(高杉晋作が騎兵隊を率い挙兵したことで名高い)には、三吉米熊と父三吉慎蔵の墓地があります。
功山寺境内には、万骨塔と称す周りに石を配した土饅頭があります。そこに「一将功成り萬骨枯る 萬骨の遺芳を偲ぶ時誰か千載不祀の恨を懐かざるものあらんや茲に全国各県縁由の地より記念石の寄贈を得てこの礎石となし以て各方の萬骨を祀る 国県名を刻せるものは其の地方に於けるあらゆる無名の士の霊位に充つなり 其の間に配する先賢と旧跡との霊石を以てす」と、格調高く述べられています。塔の周囲には二百を超える霊石が並べられ、まさに幕末維新の歴史が感じられます。そこには当然長野県の霊石もあるのですが、なんと代表信濃国霊石は「上田藩赤松小三郎旧邸石」と「松代藩佐久間象山旧邸石」の二石があります。また、昨年長府藩士三吉慎蔵の霊石が長府博物館友の会により建立され長門国幕末志士の仲間入りが出来ました。
功山寺本堂の横に国宝指定功山寺仏殿があります。その天井絵は、祢津出身の丸山晩霞の石楠花が描かれております。
忌宮の境内に、高さ六メートルにおよぶ巨大な蚕種渡来の碑があります。これは仲哀天皇・神功皇后が豊浦宮におられたとき、仲哀天皇の即位四年奏の始皇帝十一世の孫にあたる功満王が日本に帰化しました。このとき豊浦宮におられた天皇に蚕種を献上したといわれ、長府に外国からはじめて蚕種が渡来した謂われある地として昭和八年この碑が建てられ、毎年三月には蚕種祭が行われるようになりました。
以上簡単にご案内いたしましたが、上田と下関(長府)こんなに深いつながりがあるとは・・・赤い絹の糸で結ばれていたのではないでしょうか。これからの交流が楽しみです。
文・町田和幸
11月13日(木)~15日(土)に第5回真田坂職人フェアが行われました。当日、ご参加いただきました皆様、お力をお貸しいただきました皆様には、この場をお借りいたしまして御礼申し上げます。皆様のおかげをもちまして、職人フェアが無事成功したことをご報告申し上げます。
職人フェアは、フリーペーパー第2号の特集「商店主座談会/街ってなに?」を受け、お客様と専門店のあり方、その方向性、専門店の集合体としての商店街に集うお客様たちへ「暮らしのためになる知恵」をいかに伝えるか、実際のイベントはどのようなカタチか…を検討した結果生まれたイベントです(フリーペーパー第2号・第4号参照)。非常に先進的な考え方ではあると思いますが、実際に担当してみて少し先進的過ぎたかなと思いました。とはいえ、無事に事故もなく終わり参加者の皆様からいただいたアンケート用紙や感想を聞いてみますと、楽しかったという声が多かったことが何よりもうれしく思います。
これから、ますます厳しい時代となって行きますが、その中で商店街が生き残り勝ち残って行く為には何が必要なのか、どのようにしていけば良いのかが再び問われて行く時代になって行くと思います。そんな中、自分本位な考え方ばかりではなく、お客様を大事にしていき、さらには、地域を大事にしていくという基本を忘れず、我々も一層頑張っていきたいと思います。
文・松尾町二郎
フィルムカメラで撮っていた数年前までは、今よりも写真を大切にしていたように思う。二十四枚撮りのフィルムをカメラに装填し、失敗しないように一コマ一コマ丁寧に撮影。フィルムを写真屋に預けると全てのコマがプリントされる。仕上がった写真は、一くくりの思い出として大切にアルバムに収めていた。
最近は、当然のごとくデジタルカメラで撮影する。フィルムに取って代わった記録メディアには、千枚を超える写真が保存できる。撮影枚数は気にせず、バシャバシャと気軽に大量にシャッターを切るようになった。雑多な画像の中にも貴重な瞬間や残しておきたい思い出などが存在するのだが、つい面倒でプリントもせずに放置。撮ったことさえ忘れてしまうことも。制約が無い中で撮った写真は、常に価値を失う危険にさらされている。「制約が価値を生む」時代を懐かしく思う。
最近郊外には、数百坪数千坪の売場を擁した大型店が立ち並ぶ。一方真田坂は、せいぜい数十坪の小さな店が軒を連ねる。明治二十一年上田駅開業の際、河岸段丘を切り開いて造られた松尾町通りは、その後数度の道路拡幅によって店舗が削られ、売場が縮小。その結果「坂の街」「狭い店舗」と言う「制約」を抱えることとなった。
店主や店員は「制約」を克服すべく、日々試行錯誤し、価値ある商品やサービスを提供し続けてきた。今後もそのような努力を重ねることで、他には無い「価値」を提供し続ける街として存在し続けてほしい。
上田市生まれ。武蔵野美術大学造形学部彫刻学課卒。(株)サンリオに立体デザイナーとして勤務。ハローキティーなどの立体デザインに携わられ、後に独立、(有)ポッシュベールを設立。児童書の作成を中心に「こどもチャレンジ」「たまごクラブ」等、児童雑誌の扉を手がけ、その数は200冊を超えます。2007年秋、東京・京橋のギャラリーくぼたにて初の個展「招福キャラクター展」を開催。創作活動のほか、クレイ(ねんど)を使い、子供や親子を対象とする造形ワークショップや講演活動も積極的に行い好評を博されております。松尾町の真田坂職人フェアーでは信州大学感性工学科と共同のクレイワークショップを開催。
編集後記
発行日:2009 年2 月10 日
真田坂14号をお届けいたします。今回もまた企画から編集まで私たち自身の手で作成いたしました。何分にも素人の手によるものですので読みにくい点などもあろうかと思いますが、ご理解いただきたく存じます。
ご投稿いただいた皆様方にはこの場を借りて厚く御礼申し上げます。(志摩充彦とその一味)
●ご意見、ご感想等をお寄せ下さい。FAX 0268-21-1100
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●発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
●理事長:矢島嘉豊
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●スタッフ:平林敏夫、増田芳希、佐藤隆平、飯島新一郎、町田和幸、久保田康之、ドラいもん、松尾翁、店商院