真田坂 第20号
ハリー・K・シゲタ、その人生
~海を渡り、新たな写真の世界を切り拓いた上田人~
文・藤城優子
上田市交流・文化施設建設準備室
15歳でアメリカに渡ったハリー・K・シゲタはどのような人生を送ったのでしょうか。そして、国際的な人物を生んだ上田にはどのような歴史があるのでしょうか。シゲタの人生を通して上田の歴史の一面を見てみたいと思います。
シゲタの本名は重田欣二(しげたきんじ)。1887年(明治20年)7月5日、父・重田助太郎、母・ちゃうの次男として原町で生まれました。シゲタ一家は敬虔なクリスチャンで、シゲタ自身も3歳の時に洗礼を受け、上田日本基督公会(現在の日本キリスト教会上田教会)の列名簿にもその名が残されています。
1900年(明治33年)、旧制上田中学(現在の上田高校)に入学しましたが、1902年(明治35年)年に中退して、アメリカ西海岸の港町シアトルに向かいます。シアトルでは川辺村出身の親戚、柳町森太郎が身元引受人として待っていました。このころから、アメリカ文化に同化するため「ハリー」と名乗っています。ちなみに「ハリー・K・シゲタ」のKは、KINJI(キンジ)のKです。
1903年(明治36年)、シアトルから中西部のミネソタ州セント・ポールに移り住み、セント・ポール美術研究所に入学しました。ここで本格的に絵画、版画、彫刻、工芸など美術全般を学び、芸術的センスを磨いていきました。また、ここで写真技術も身につけました。デッサンのスピードが遅かったのでそれを補うため写真を撮ったのだそうです。生計を立てるため写真スタジオで働いたことも技術を磨くのに役立ちました。後にこの美術研究所の上級クラスの生徒勧誘用パンフレットにシゲタのデッサンが使われています。このことはシゲタの優れたデッサン力を証明しています。
1910年(明治43年)頃からアメリカ西海岸の町ロサンゼルスに住み、肖像写真家、写真修整家として仕事を始めました。また、奇術師としても舞台に立っています。シゲタは奇術師の経験について「人の目はトリック、幻惑によってごまかされやすいということがわかり、後に写真家として活動する際大変役に立った」と語っています。その後、リトルトーキョーで写真館を開業。写真教室も開き、1916年(大正5年)には修整家の同僚の内藤信と結婚しました。
1924年(大正13年)、アメリカ中西部の大商業都市として発展していたシカゴに向かいます。大きな写真スタジオの商業写真部門責任者として働き、1930年(昭和5年)にカメラクラブの仲間であるジョージ・P・ライトと共同して、シゲタ・ライトスタジオを設立しました。スタジオの顧客には、ジェネラルエレクトリックやケロッグなど日本人にもなじみの大企業が名を連ねています。1937年(昭和12年)にはニューヨークに支店を開設していた日本の宝飾店ミキモトの広告写真も手掛けました。また、シゲタはカラー写真の技術でも高い評価を得るようになります。カラー写真の技術は他社との差を生み、ビジネスチャンスを拡大していきました。
1920年頃から「絵画的写真芸術(ピクトリアリズム)」と呼ばれる写真にも取り組みました。写真を芸術作品と見なし、絵を描くように綿密な構成で作り上げてくのです。東洋的な雰囲気の作品や宗教的で厳粛な作品はシゲタの芸術写真の特徴です。また、それまで交わることのなかった商業写真と芸術写真という二分野を融合したこともシゲタの大きな業績の一つであると言えます。芸術写真の手法を広告写真に用いて独創的な商業写真を制作したのです。
1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し太平洋戦争が勃発。日米開戦により多くの日系人が強制収容所に入れられます。シゲタは強制収容所入りを免れますが、一時自宅に拘束され、敵国民である日本人所有の会社は商取引ができなくなってしまいます。しかし、共同経営者や弁護士の手腕でシゲタは仕事を継続することができました。「シゲタの才能がなければ会社の存続が危ぶまれ、アメリカ人経営者やその家族も生活できない」という主張が受け入れられたのです。それに加え、シゲタの仲間に対する奉仕やアメリカへの忠誠心を記した嘆願書に多くの写真関係者が行った署名も功を奏しました。
そして、1948年(昭和23年)年にはイギリスの国際写真コンペティションで作品「渦巻」が芸術写真部門1位となり、世界の評価を得るに至るのです。
シゲタは写真家としてだけでなく、一人の人間として多くのアメリカ人に信頼され尊敬されていました。「私が学んできたことはすべて社会のものである。」60歳頃のシゲタの言葉です。このような思想はシゲタの信仰心とも関係しています。上田ですでに洗礼を受けていましたが、戦時中さらに信仰を深めていきます。シゲタはシカゴ中心部にあるフォースプレスビテリアン教会に自作の絵画「ゲッセマネのキリスト」を寄贈しています。これは十字架刑に処せられる前夜のイエスの苦悩と祈りの場面です。イエスは最終的に神のみこころにしたがい十字架を背負う決意をします。シゲタはこの場面を自分と重ね合わせ、苦悩の中にあっても神にしたがい、社会のために働いたのでしょう。
1954年(昭和29年)7月、アメリカ国籍を取得。アメリカ国籍を取得するべきかどうか日米開戦までシゲタの気持ちは揺れていました。しかし、開戦の翌年に行われた国際写真展の晩さん会の時、アメリカ人の司会者は「運命のねじれによって彼は今敵国民の立場に置かれているが、我々にとっては敵国民では無い。むしろ大切なる友である。我々が過去に彼から受けた教示や恩恵は多大である。今こそ我々は彼の良き友であり彼の為に力の及ぶ限り助力すると誓わなければならない」と述べてシゲタを紹介したのでした。シゲタはそれまでの腰掛け的な気持ちが無くなり、アメリカに忠誠を誓うべきと考えたようです。
1963年(昭和38年)4月21日、シゲタは仕事を引退して移り住んだロサンゼルスで75歳の生涯を閉じました。
それでは、このような国際的に活躍したシゲタを生んだ上田とはどんな場所だったのか。シゲタの人生を通して上田の歴史を見てみたいと思います。
少年時代のシゲタはすでに写真やカメラ、西洋美術に興味をもっていたと言っています。また「アメリカには文明の奇跡がいつも起こっている」という言葉はアメリカに対する強い憧れを感じさせます。当時の上田は製糸業などが盛んで横浜港を通して輸出入が行われ、上田にも外国製品が流入するなど経済的に繁栄していました。「上田は信州の横浜」と言われていたそうです。金融業が次々に開業し商業活動の資金調達を支え、1888年(明治21年)頃には衣食住の変化などにより消費が増え経済が発展していきます。写真関係では1872年(明治5年)頃に写真舗があり、1891年(明治24年)には写真館が2軒ありました。賑わいの中心地である原町出身のシゲタは上田の繁栄を実体験し、流行にも敏感であったと想像できます。
また、アメリカ人宣教師が横浜に設立した日本で最初のプロテスタント教会である日本基督公会は、1876年(明治9年)に上田日本基督公会を設立しました。日本で最も古い地方教会の一つで、他の地方都市への布教活動の拠点ともなりました。働くことは神の命であるというプロテスタント教会の教えは生涯シゲタに強く影響を与えていたことでしょう。「私が学んできたことはすべて社会のものである」という言葉も自分の行為は決して利己的ではなくすべて社会のものであり、最終的には神へとつながる道であるという信念があったからこそだと思います。シゲタのアメリカでの成功には、上田で培った思想の裏付けがあったに違いありません。
このように、地方都市でありながら外国と密接に結びついていた上田の歴史を知れば、シゲタのような国際人が生まれたのも不思議ではありません。
シゲタの[簡単な!]年譜
1887年 (明治20年)
7月5日、現在の上田市原町で生まれる。
1902年 (明治35年)
15歳の時、アメリカ西海岸の港町シアトルに渡る。
1903年 (明治36年)
アメリカ中西部の都市セントポールの美術学校で学ぶ。
11910年 (明治43年)
ロサンゼルスに移る。この頃からロサンゼルスで肖像写真家として働く.とともに、奇術師として舞台に立つ。その後、リトル東京に写真館を開業する。
1920年(大正9年)
ハリウッドで映画雑誌のカメラマンとして働くとともに、この頃からピクトリアリズム(絵画的写真芸術)と呼ばれる作品を撮影するようになる。
1930年(昭和5年)
シカゴにカメラクラブの仲間であるジョージ・P・ライトと共同してシゲタ・ライトスタジオを設立する。
1941年(昭和16年)
日米開戦
1948年(昭和23年)
ロンドンの国際写真コンペティションにおいて『渦巻』が芸術写真部門の1等賞を受賞する。
1949年(昭和24年)
アメリカ写真協会名誉会員の称号を受ける。生存中に受賞したのは当時5人。後進の教育とアマチュアの育成に尽力したことによるもの。
1954年(昭和29年)
アメリカ国籍を取得
1963年(昭和38年)
4月21日ロサンゼルスで死去。享年76歳。
千曲川
~海無き里の水の恵み~
談・西沢徳雄さん
文・どらいもん
今も昔も、上田を流れ続ける千曲川は、上田を語る貴重な1ページです。うららかな春から紅葉に彩る秋にかけ千曲川に建てられた「つけば小屋」。そんなところから今回は上田の魅力を探ります。
”つけば”ってなに?
それでは早速、西沢徳雄さんの「つけば小屋」に取材に行くことにしましょう。
私達が住む、この上田市には、ちょうど市の真ん中を分断するように千曲川が流れています。この千曲川は、皆さんご存じの通り新潟県域では信濃川、長野県域では千曲川と呼称が変わる日本で一番長い河川です。この水量豊富な大きく長い河川には、色々な種類の淡水魚が生息しており、ビール瓶位の太さの「大うなぎ」や、尺を超えるような「大鮎」、上流に行けば「河原のダイアモンド」と呼ばれる「かじか」などが住むロマンあふれる素晴らしい河川です。
さて、私どもが設営している「つけば」(河川敷に設けた季節料理小屋)ですが、毎年4月下旬に建て、10月下旬まで営業。10月31日までにはきれいに壊し元の河原に戻す「決まり」がありまして、一つの文化として千曲川の季節感であると思っています。
本来「つけば」という言葉は、4月下旬から6月中旬のウグイ(はや)の産卵期に河川に人工的に産卵床を作って集まったウグイを一網打尽に捕獲してしまう「種付けば漁」からきた言葉で、このウグイを塩焼き、魚田楽、天ぷらと3種類に調理したものを「つけば料理」、そして、つけば料理を河川敷で食べてもらう季節料理小屋を「つけば小屋」または、「つけば」といつしか呼ぶようになったのです。
種付けば漁が終わり、6月下旬には鮎釣が解禁して鮎料理が始まるので、それからは本当なら「鮎料理小屋」とか「鮎小屋」と呼ぶのが正解だと思うのですが……。
実はこんな訳があります。ちょうど私が鯉西で働き出した30年ほど前までは、鮎釣や投網漁で捕獲した鮎は、現地で消費するのではなく鮮魚で東京(築地)に出荷するのが普通だったのです。私の親父などは「昔はサラリーマンをしながら暇さえあれば鮎を捕って組合にもっていったものだ」と言っていました。また、千曲川の天然鮎ということでかなり良い値がつき、当時近所でイの一番にカラーテレビを買ったり、大型冷蔵庫を買ったものだなどとよく自慢していました。ただ、これがバブルが弾けた頃からか価格が安定しなくなり、当時漁業組合長をしていた親父が「こんな事ならわざわざ東京くんだりに鮎なんか送ることねぇ!食べたきゃこっちに来てもらえばいいんだ!」と始めたのがつけば小屋での鮎料理の始まりなのです。今でこそ鮎料理の方が人気があるのですが、実は日が浅いのです。
また、当時は、つけば料理(ウグイの料理)が全盛期で、つけば小屋も30軒ほどあり、地元の人が「花見が終わったらつけば料理」とこぞって企業ぐるみで来てくれたものです。これも季節感というか、当時の文化だったのでしょう。ただ、今は、つけば小屋も十数軒ほどに減ってしまい、若い人の魚離れなど寂しい限りですが、昔に帰る、昔を掘り起こすのも良いのではないかと思っています。漁業組合員約1300人の平均年齢は、75歳位と聞いていますが、最近では、40代の私などがメディアに取り上げられたせいか、同世代以下の若い世代の組合員が少しずつですが増えてきています。
元来、海なし県である長野県、特にこの上田市は、日本海にしても太平洋にしても遠く、いまほど交通網の発達していなかったその昔、海の幸が届くには相当な日数がかかりました。あの上田の英雄真田親子も、この千曲川の幸は貴重なタンパク源だったのは間違いないでしょう。時代が流れて色々なことが変わってきている現代ですが、「千曲川がこの上田市を流れる」事は全く変わっていません。私はこの千曲川の文化を守り、昔をもっともっと掘り起こして、全国に千曲川の魅力をもっとアピールしていきたいと思っています。(談)
貴重なお話をお伺いしながら、千曲川に65年ぶりに鮭が遡上してきたという新聞の記事を思いだしました。帰りがけに漁業組合さんへでも寄らせてもらおうかなと思い立ち、組合長の春原さんに現状の苦労や努力、保存されている貴重な資料等を拝見させていただきました。
大正時代から国策として、日本一の河川には首都圏に電気を送る為に発電用ダムが作られ始めました。工業用の立地としても好条件の為に工業建設も進められ、高度成長期には、工業廃水や生活排水が問題となったこともあります。この時代を過ごした川辺の生き物達からは「なんとも生き辛い時代になったな」そんな嘆きすら聞こえてきそうです。それでも、清掃活動や稚魚の放流、文化や歴史の継承といった、直ぐには結果が出ない努力を続けてこられた全ての皆さまには、胸に込み上げてくる物を感じます。上田に帰って来た一匹の鮭でしたが、「行き辛い時代も終わったな」と上田を語る一ページに書いてくれるような「カムバックサーモン」であって欲しいです。
I LOVE 千曲川。
千曲川データ
全長214km。新潟県に入り信濃川となる。流域面積11,900k㎡は日本第3位。万葉の頃から千曲川として多くの詩歌に詠われる。主な魚種は、アユ、コイ、フナ、ウグイ、オイカワ、クチボソ、ナマズ、ドジョウ。
※「カムバックサーモン」キャンペーン
長野県が1980年(昭和55年)から千曲川にサケ遡上を復活させるために行っているキャンペーン
取材先
春原昌明 様(上小漁業組合)
西沢徳雄 様(鯉西)
参考資料:マルチメディア情報センター「私たちの周辺」
つぶやき ある日のフードサロン 〜お弁当編〜
今日は、松尾町フードサロンを紹介します。 時計の針が11時半を回る頃、松尾町フードサロンは、お弁当を買いに来る人で賑わいます。MICカフェのショーケースの前には、おかずがいろいろ入った大きめのお弁当、スッキリサイズのちょっと小さめのお弁当、各種お惣菜が、色とりどり並びます。販売されている食べ物は、店内のテーブルでも食べることができます。+100円で、あったかいお味噌汁とお漬物がつきますので、軽くランチ気分も味わえます。
毎日、地域の料理好きな皆さんが、食べてくれる人達の健康に気を使いながら、いろいろなバリエーションのお弁当を提供してくれるので、平日以外にも、お休みの日のランチ、学校や幼稚園などでのイベントなどでも安心して利用できます。
また、時々お料理教室もやっていたり、自分で企画したイベントにも会場を貸してくれるそうです。いろんな使い方が出来そう。さ~て、今夜の夕食の献立作りの参考にもう一回りして帰ろっかな♡
つぶやき 〜フードサロンから〜
松尾町フードサロンがオープンしてから1年がたちました。『食』を軸に『暮らしをたのしく、街をいきいきと』を願いに、たくさんの人たちと力を合わせて来ました。地域の農家の方々から仕入れた、新鮮で安心安全な野菜。色んな方々が心を込めて作ったお惣菜、お弁当、お菓子、物産の数々をご用意しております。二階の厨房、サロンスペースではお料理教室や各種会合にもお使い頂けます。イベントへのご利用など、皆様のアイデアでご活用ください。また、サロン前のポケットパークは憩いの場所としてお休み頂けます。どうぞお気軽にお越しください。
松尾町フードサロンへのお問い合わせ、ご利用のお申し込みは
TEL 0268-71-5355
FAX 0268-71-5369
最新情報は、
検索→「リラクオーレ」
“http://liracuore.jp”
で見ることができます。
編集後記
発行日:2012年5月28日
ハリー・K・シゲタとつけば文化。先進性と自然豊かな素朴さ。上田の両面性が楽しい編集作業でした。商店街もまた、不器用ながらも新たな試みをして参ります。ご協力いただきました皆様に厚く御礼申し上げます。
●ご意見、ご感想をお寄せ下さい。FAX0268-21-1100
●真田坂web:http://sanadazaka.jp
●発行責任者:長野県上田市松尾町商店街振興組合
●理事長:寺島秀則
●「真田坂」担当理事:飯島新一郎
●スタッフ:佐藤隆平/志摩充彦/平林敏夫/増田芳希/町田和幸